道場長きままごと

 


目 次
道場長きままごと・令和6年2月1日
道場長きままごと(7) 令和2年8月
道場長きままごと(6) 令和2年1月
道場長きままごと(5) 令和元年7月
道場長きままごと(4)
道場長きままごと(3)
道場長きままごと(2)
道場長きままごと(1)

 

 

きままごと・令和6年2月1日

日本武道館「月刊武道」に道場長寄稿 

公益財団法人日本武道館発行「月刊武道」令和6年2月号(1月26日発行)に、合気道道主植芝守央先生のご推薦をいただき「私の修業時代」のテーマで寄稿いたしました。

同誌への寄稿は6〜8頁という制約もあり書き足りないところも多々ありました。これを機に、同誌の編集部のご了解を得まして、同誌への寄稿文を土台にして加筆・修正して「私の修業時代」として作成中です。乞うご期待願います。

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道場長きままごと(7) 令和2年8月
“変わりダネ日本人 [植芝盛平]”

 今年の1月に、「変わりダネ日本人・植芝盛平」その1、2を掲載いたしましたが、全文の準備ができましたので、その1から13まで一挙に掲載いたします。

 令和元年末、断捨離で本棚を整理していた時に、東京タイムス(昭和38年頃)に〝変わりダネ日本人[植芝盛平]″というタイトルで連載されていた「開祖植芝盛平翁先生」のインタビュー記事のコピーを発見しました。きっと以前に、小林保雄先生より頂いたものと思います。すべてが揃っていませんが、興味ある内容でしたのでご紹介いたします。なお、なにぶんにもコピーといっても昔の青焼きコピーの関係で不鮮明で読み取れない部分、また記述内容・言葉使いが令和の時代にそぐわないところは勝手ながら修正およびカットしてあります。ご容赦のほどお願いいたします。(インタビュアー 池田一彦)


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その1
合気の試合やめる
他流の巨漢を不具にして

 いく通りかの合気の型を見せて、道場からもとの座敷に戻った翁は、「わしは50歳からこっち、試合というもんを一切いたしまへん。他流試合はもちろん、合気同士の試合でも、必ず相手を傷つけることになりますさかい。」
 のちになってわかったのはこういう話だ。翁が50歳をすぎたころ、ある日、道場へ身のたけ6尺、体重30貫、腕は鉄のごとく、腰は大石臼のごとき巨漢があらわれ、「わしは鹿島神刀流免許皆伝の者じゃ」と試合を申しこんだ。
 その男はいかにも強そうであった。鹿島神刀流といえば、3尺の長剣をふるってまっこう正面から切りこむ一刀が、電光石火、目にもとまらぬ技がもはや人間業ではなく、文字どおりの神刀だといわれていた。
 そんな、魔剣の正面に立った植芝翁は、「よろし」。試合開始の掛け声とともに、ツツーと進んで、相手が大上段にふりかぶった木刀の剣先に進んだ。そうすれば間合いが詰まって、相手の打ちこんでくる力がかえってにぶる。はなれているほど、向こうの打撃力は強くなる。つまり加速度の原理だ。
 「えーいッ!!」
 ものすごい叫び声もろとも、もろ腕の力かぎり、敵は木刀を打ちこんだ。巨体で突進してきて、同時に体あたりの戦法であった。これでは小男の植芝は、脳天を打ち砕かれたうえ、道場のすみっこに、雑巾のごとく横死させられる!。
 非常に危険な、とうてい道場での試合とは思えぬ殺人剣であった。
 「うむ!」と、一切をさとった植芝は、とびのきもかわしもせず、そこに突っ立ったまま、スッと斜めに身をひらいた。
 植芝には、相手の打ちおろしてきた木刀の先端が弧を描く、その「弾道」がみえていた。「弾道」のわずかに7、8寸の外側へ、自分の体をかわしたのである。
 「かわすという技法は、3尺も5尺もとびのくのは下で、わずかにスレスレに身をかわすのが中、もとの位置にいて、相手が勝ったと思うくらい、ほんの5寸だけ剣の落ちてくる外側へ身をひらき、その剣に空を打たすのが上」
 とは、これまたのちにきいたところだが、この時がそうであった。その男の目には、とびのかない植芝の体がみえ、「打った」と思い、満身の力で植芝の体にぶつかった。もし、その男の予期したとおりであれば、植芝盛平は鹿島神刀流のために殺されていたであろう。
 しかし、ぶつかったと思う植芝のからだのそばをスーッと通り抜けて、男の巨体は、恐ろしい勢いで道場の羽目板にぶつかっていった。そしてそのまま気絶した。
 手当を加えたが、右肩が砕けていてもとのからだにはならず、武道廃業のほかはなかった。
 「あの人も、自分の力で大けがをしたんやが、わしがチョイと手出しして、途中で止めて倒してやれば、羽目板まで行かずにすんだのにと、つくづく考えこんでしまいました。
それ以来、合気では試合をやめましてん。」


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その2
女性まじえはげしい修行
“力にたよれば必ず負ける”

 それ以来、合気では道主植芝翁自身だけでなく「一切の試合」を禁じた。したがって道場での技は型を見せるだけとなった。しかしそれにも相手がいる。
そして道主の相手になるのは、よほど練達したものでないと勤まらない。
 翁のはげしい声に向かって、サッと木刀を打ちこんでいくと、翁のからだはわずかに横にひらいて相手を手もとにひきつけ、トトトと泳ぐのを、「ソーラ」と、かるく技をかける。すると、羽目板まで行かず、相手は途中でラセン形にまわってたおれる。
 「止めてやるのが合気です。けがをするのは自力です。合気は“愛気”で、相手を愛して、そうら、そんなに力を出すと、負けるよ、ということを実地に教えるのです。しかし他から教わるだけではいけません。“愛される”だけではいかん。師範と対等に“気を合して”まず自力に打ちかつ、という修業が初伝です。それを“アガツ”といいます。」
 と道場長吉祥丸さんの説明。「アガツって何ですか?」
「“吾勝”と書きます。吾に勝つ、という境地です」。かたわらから翁がいうには、「人の力には、いくら強いといったって限りがあります。その力で行こうとすれば、必ずやぶれます。日本のやった大戦争がそれでした。日本の武道も力わざである限りは、邪道のものです。
 しかし、武道において力を否定すれば、一見武道を否定しているようにみえる。
力を否定する武道というものがあるのだろうか。大東亜戦争の始末をみて、わしは深い悩みにとらわれ、岩間の奥ノ院にこもって3年間、思い悩みました。修業をしなおしました。そして、やっと戈(ほこ)を“止”めるのが、“武”であるゆえんを悟りました。これが吾勝の境地です。
 吾勝を越えた合気の修行者は、相手のいかなる暴力をも、かるく止めてしまう技を身につけます。こちらから相手を打ち倒すのではないから、もはや武器はいりません。無手です。無手で相手の剣に対し、切りこんでくれば、かるくかわして、相手の力を去(い)なし、そのあとで、〝そうら″自分の力でたおれるんだぞ、と相手をたおします。
 むろん、それは相手の剣をいなした時にちょっと技をかけて、それで相手がたおれ、その力が無になるようにします」
 話はカンタンだが、これが合気の初伝の真ずいである。ただ、相手の打ちこんでくる剣を「かるくいなし」といったって、やり損じれば、切られてしまう。
 相手に「きった」と思わせるくらいわずかにかわして、相手をそばに引きよせ、「タッ」という一瞬間にその手首を打つとか、ひねるかして、加わったその力で、相手がたおれ、ないしは自分の力を失ってしまう。
 そういうふうに仕向けるには、こちらによほどの技の修練がなくてはならぬ。
若松町の道場では、一日に300人ぐらいが必死になって、そうした練習にはげんでいる。その中には女性もまじっている。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その3
悲願の岩間隠せい
修業のやり直しに専念

 植芝翁やその他の人々が「岩間の奥ノ院」というのは、茨城県岩間町にある盛平翁の住居である。翁がここに千坪あまり原野を買って、その松林の中に、はじめ仮小屋のような家を建てたのは昭和15、16年であったが、そこへこもって修行のやり直しに専念したのは日本敗戦の年であった。
 その時から「力にほこる者はほろぶ」「合気道は戈(ほこ)を止める道だ」「その道を完成しよう」との大悲願を立てて一心不乱の幾年となった。
 したがって、岩間時代の初期には、翁は至って悲観的で、自分のそれまでの合気をほとんど否定し、新しい道を模索していた。
 だから門弟の塩田剛三などがたまたま岩間を訪れて、「先生は高齢で衰弱し、隠居してしまった。合気道の二代目はオレだ」とばかり、都民銀行の工藤昭四郎や国策パルプの南喜市の後援で、新宿区築土町に養神館道場を建て、合気の元祖のような態度で多くの門弟をあつめた。
 塩田は植芝子飼いの男で、道場長吉祥丸などと一緒に育った男だが、翁の真の精神を体得したとは言いがたい。
 若松町の本部道場が吉祥丸や藤平光一の渾身の努力で、隆々と発展してくると、塩田のパトロンの南喜市が「本部道場と養神館を対等にしてくれ」「塩田に十段の段位をくれ」と申し入れてきたのに、「おう、おう、好きなようにさしたる。十段でも百段でもやる」と笑って答える翁であった。あとで翁は筆者に語った。
 「合気は段位でも道場の格でもない。そないなもんとはおよそ無関係や。南はんはシロウトやさかいしょうがないが、塩田が、そないな世間のミエにこだわっていたかと思うと、かわいそうでならん。ハダカ一貫になってわしのところにかえり、もう一ぺん修業をやりなおしたらええのやけど、あきまへんかなあ」
 しかし、岩間隠せいの(?)初期の翁を見あやまったのは塩田だけではない。静岡で大道場を開いている望月稔八段も同様であった。
 それらの側近の高弟たちがそうであったのだから、森の中の小さな家に住みついた小柄なじいさんの正体を、村ではもちろん誰もが知らない。
 ただ近くに住む国鉄職員の斎藤青年が、2,3人の仲間を連れ、翁のところへ、「合気をおしえてください」と、どこからか植芝盛平の名前を知って入門してきた。その頃は道場もないので、森の中でけいこした。
 ある日、斎藤の仲間の一人が、村の無頼漢たちに襲われた。森の中の、へんなじいさんのところへ何やら習いに行っているというのが理由だ。
 ところが、その一人が無頼漢5人をなげとばした。なげとばされたうちの一人が腕を折った。それから、大変なことになってきた。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その4
暴れ者が真人間に
道場で心身鍛える

 無頼漢の4人を道場に連れて帰って、翁は懇々とさとした。
「おのれの力で相手に勝とうとすれば、たいてい相手にやられる。それはおまえらが味わったとおりや。それを村のヨタモンだけのことやと思ったらまちがいじゃ。日本が戦争に負けたんも、おのれの力で相手を征服しようという邪心のためじゃ。本当に勝つには、自分の力を正しく使わなければアカん。力を正しく使えばおまえらに切れない雑木の束が、67歳のじじいにでも切れる。
 力の正しい使い方によっては、5人や7人、いや10人でも15人でも一ぺんにたおしてしまえる。それがきのう斎藤の使うた合気の手じゃ。
おのれの力を正しく使うということは、技(わざ)であると同時に心だ。心が正しくないと技は身につかん。
 心を正しくするとは、第一に人と争わんことじゃ。だから合気ではこっちから仕掛けて行くということは決してしない」
そのとき、一人の男が言った。「それではまるで武術にならんのと違いますか」。「そうじゃ。いわゆる武芸、武術は、勝とう勝とうとして編み出されとる。武術の神ずいは敵を殺すのではのうて、敵をなくすことじゃ。相手の力を止めることじゃ。合気は敵の力をうばい、戈(ほこ)を止める術じゃ。だからもし敵がかかってこなければそれでええ。何もない。世の中は平和じゃ。そういう平和な世界となれば武術などいらん。一切の武術を廃止するために、どんな武術で攻めてきても、その力をうばい、刀をうばうのが合気じゃ。世界平和ということが合気の大目的じゃ」
 それは終戦後、岩間にこもって、このごろ(昭和25、26年)やっと植芝盛平の心に芽生えてきた新しい武道、合気の目的、理想であった。
長い苦悩をへて、やっと開眼のよろこびを翁は語っているのであったが、相手が町内のヨタ者ではたよりないことおびただしい。
 とにかく、この連中はそれから植芝翁に合気の入身、捌き、受身、片手取り回転、両手取り回転、連続回転などの技を教えてもらった。
しかし、そのため心を正しく持て、ということの実践として、水くみ、掃除、翁の肩もみなど、あらゆる雑用にコキ使われて心をきたえられた。
 折れた腕のなおった兄貴分の男も入門してきて、あるとき翁の肩をもみつつ、“スキをねらって後ろから一ぺんひっくり返してやろうか”と、ふと思った。
「えーい!」翁の掛け声もろとも、その瞬間に、男は肩ごしに前方5メートルぐらいのところへ投げとばされた。恐れ入って、「どうして先生は、わしがそう考えたのがわかったんですか」「気じゃ。なんとなくわかる。肩をもむおまえの手が止まったのでナ・・・」
 以来、かれらは「先生、先生」と翁に師事して、村でもアバレたりしなくなったので、「先生のおかげで町が静かになりました」と、警察の警部補が礼をいいにきた。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その5
生まれは未熟児
父の鍛錬で今日の翁に

 しかし植芝盛平翁が岩間にこもったのは、村のヨタ者を教化するためなどではない。
 合気道に新生面を与える大悲願のためであった。
 そもそも植芝翁が合気道という武道を創始したのは、いつ、どこで、何のためであったか?
 合気道は、天皇何十何代の何天皇の時に、何とやらのミコトが・・・といった由来を、塩田剛三の養神館道場で説き、あるところでの講演で工藤昭四郎がその通り喋っているのを聞いたことがあるが、およそデタラメである。
 植芝翁が、そんな誤解を与えるような言い方を塩田にむかってしたことはあるが、弟子として、もっと正しく聞くべきであった。
 合気は前人未発、全く植芝盛平の創始した武道である。
その神ずいは、身に寸鉄をおびずに、多数の敵をたおす、というのが創始当時の合気道であった。
 みごとにそういう合気道をつくり出した植芝盛平は、大本の出口王仁三郎が、「植芝はんのような人は、百年に一ぺんしかあらわれん奇跡のお人や」という通り、日本武道史上にかつてない新しい武道を編み出した一大天才で、宮本武蔵などよりも、はるかに高い武道精神の顕現者といえよう。
 筆者は、もうかれこれ20年、翁の側近にあって、その過去の経歴と、精神の固成過程をきき、翁の伝記を編もうとしているのだが、80歳を過ぎても翁の精神はすすみ、それにつれて技も発展するのをみて、目をみはっている。翁は「古武道」というものをアタマから否定する。
「古武道とは、武道のヌケガラだす。それを保存して何になる。真の武道は一日も停滞せず、変化し、発展する。合気でも、私はいままでに三千以上の技(わざ)をつくり出したけど、それは合気の発達の歴史みたいなもんで、大部分はヌケガラだす。だから道士が一つの技に執着し、停滞していると、どんどんおくれてしまう。日に新たに、また日に新たなり、の精神が肝心だす。」
 この植芝盛平は、紀州田辺の生まれである。八か月で生まれて五、六百匁しかなく、父の手のひらに軽くのるような赤ん坊で、「この子は育たない」と、人に言われた。それを父が大事にして、「何としても、育ててみせる」と、がんばった。そのためにむやみにかわいがったというのではない。三歳ごろから、盛平のからだをきたえるために、海につけ、磯を走らせ、山伝いをさせ、10歳、12歳と長ずるにつれて、ありとあらゆる荒行(あらぎょう)をさせたのである。
 盛平自身も、幸いにおとなしいけれど負けん気のコドモだったので、自己鍛錬にはげみ、その間の逸話は山のようにあるが、15、16歳になったころには、小柄だが骨の太い非常に力の青年となり、体重も20貫ちかくあった。それでいて、一日20里ずつ毎日山道をまるで飛ぶように走るのだから、目にも止まらず、
「アレ、また植芝の天狗がとおりよる」と町の人々にいわれたものだった。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その6
鬼軍曹もネをあげる
超人的な体躯の持ち主

 徴兵適齢の満二十歳になった時の植芝は、超人的な体躯(く)を持っていた。
腕っぷしや足腰の強いのはふつうだが、頭が石より堅かった。人とけんかすると、頭でなぐる、ということをあえてした。植芝に「頭突き」をかまされたら、肋骨を折るとか、腕がはずれるとか、相手は大けがをした。
 しかし植芝がわれから好んで暴力をふるうということはなかった。そのうち、かれは大阪の連隊に入営した。
 岩上軍曹というのが新兵の教育係で、鬼の岩上というくらい、厳しい男であった。小柄なため、最下位に並んでいる植芝が、ひどく情弱な男に見えた。
「きさま、植芝か?」
「ハイ、植芝二等卒でございます」
「ございますとは何だ。やり直せ」
「やり直します。陸軍歩兵二等卒植芝盛平!」
「ウム、よし、一歩前へ!」
岩上軍曹は一歩前へ出た植芝の頭を、
「活を入れてやる」と力かぎりのげんこで、なぐった。その瞬間「痛ッ!」と、その手を思わず左でかかえた。
「きさまの頭は石か?」
「いえ、ただの頭であります」
「よし、もう一ぺん、気をつけッ!」
岩上は植芝を直立不動の姿勢にさせておいて前よりも力をこめてその頭をなぐった。
自分のこぶしが砕けたかと思うくらいの激痛であった。なぐられた植芝の方は微動もせず、そこに立っていた。
「おい、きさま、痛くなかったのか?」
「痛くありません」
「不思議な頭だな」
「ただの頭であります」
「どうして痛くないのだ」「どういうふうに鍛練したのか」
「一日に百ぺん、石の柱に頭突きをして、七年つづけました」
「フーム」これには岩上もおどろいて、「なぜ、そんなことをしたのか」
「ハイ、私はこのとおり、からだが小さいので、小さくても強くなり、お国のため役立ちたいと思って!」
「そうか、剣道はやったか」
「ハイ、柳生流免許皆伝であります」
「槍術は?」
「大島流免許皆伝であります」
「柔術は?」
「磯流五段です」
「水泳は?」
「軍曹どの、私は熊野灘に面した田辺の生まれで、小さい時から、わが家のふとんの中でねるほかは、海の中でくらした人間です」
「フーン、そうか、そのほかおまえのじょうずにやれるものは何か」
「肩もみであります」
意外な返事であった。が、その夜、下士官室へよばれた植芝は、岩上軍曹の肩をもみながら「軍曹どの、このつぎ私の頭をなぐる時は気をつけてください。軍曹どのの手が砕けますから」


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その7
敵の砲弾をかわす
日露戦争も無傷で凱旋

 日露戦争がはじまると、「この時」とばかり植芝は出征した。一年半ほど戦地にあって、タマ1つあたらなかった。というのも、大砲のとんでくるのが植芝には「よく見えた」からである。
「あぶない」とみてとると、砲弾が着地、爆発するまでに、植芝は一町ぐらい走って逃げた。
「実際、わしの走るのは大砲よりも早かった」と翁はいう。そして、こんなことがあった。何かの都合で植芝の部隊が大連守備中、二人の下士官が繁華街へ飲みに出かけた。
 酔っぱらって戻ってくる下士官に、植芝は途中で会い、敬礼したが、それが相手には見えなかった。
「上官に敬礼しなかったら、どんなことになるか、わかっているか」
二人は軍曹と曹長であった。
 目の前に植芝を立たせておいて、とびかかって頭をなぐった。倒れたのは二人の下士官であった。二人とも手をけがしていた。
「こら、きさま、上官をなぐったな」
「いえ、なぐったのは軍曹どのと、曹長どのであります。もし、おうたがいなら、もう一ぺんなぐってみてください」
 二人の下士官は、改めて植芝をなぐろうとしたが、めいめい手の指の骨が折れていて、それどころではなかった。営舎に帰り、自分の中隊長にこのことを報告した。やがて植芝は二人の下士官とも軍法会議によび出された。
「なぐったのではない、なぐられたのだ」
という植芝の供述を証拠立てるため、もう一度なぐってみることを命ぜられたのは、植芝の所属中隊の岩上曹長であった。岩上はもう曹長に昇進していたが、法廷で植芝の顔を見るなり、
「この男の頭なら、なぐった方がけがをします」と、いきなり証言した。
以来、「石頭」が「鉄頭」という異名になった。
 植芝盛平のこの様な逸話は一冊の本になるくらいはある。しかし、これが合気に直接があるとはいえない。
 植芝が合気を開眼したのは明治42年、かれが北海道開拓に志し、55人の田辺近傍の同志とともに、北見の国白滝村に入植したころである。
白滝村(現・白滝町)の二股という村はずれの部落に定住した植芝は、55人のかしらとして開墾の先頭に立ち、立木を切り、巨石をたおすなどの怪力をふるったので、いつしか彼には「白滝王」という異名がついた。
 白滝王の支配区域は、上湧別村の十里四方に及んだが、ある時、遠軽(えんがる)町まで用に出かけ、そこの久田旅館というのに泊まっている時、一人の強面の人相をした武芸家と出会い、「わしは武田惣角というものじゃ。おまえは見所がある。わしのあとつぎになれる。極意を教えてやるから弟子になれ」といわれて、霊感でもあったのか、植芝は直ちに入門して、武田を白滝のわが家に連れ帰った。
 これが植芝の一生を決定した合気道開眼の機縁となったのである。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その8
武田惣角に師事、仕えて大東流を体得
帰郷直前に父が他界

 武田惣角にめぐり会った植芝は、27歳の血気ざかりであった。
ところで、武田惣角の生まれ山梨県であって、武田家の末えいとも、遺臣とも自ら称したが、大東流という武芸の達人であった。
 大東流は会津藩のお留技と言われ、明治になっても一般にひろまらないで、、代々一子相伝の秘儀として伝わっていた。武田は、その十何代目とか、これまた自ら称していた。
 ずっとあとになって、東京で植芝門下の望月稔が師の道場を訪れ、ガラリと表戸をあけると、サッと木刀がひらめいて、
 「何者だ」と、大かつ一声。
 見ると、そこに立っているのは武田惣角と、あとでわかった。
「まるで、かたき持ちが、そのかたきに襲われたようなその時の顔を忘れられません。のみならず、入来者が植芝の弟子とわかってからの武田先生の態度が論外なのです」
 武田はその時、放浪の旅路から東京にたどり着き、植芝の道場に立ち寄っていたのである。世は大正の御代だから、かたき討ちでもあるまいのに、入ってきた者をいきなり木刀で打ち下ろすというのも非常識である」
 もし望月に合気の心得がなかったら、その時に大けがをさせられていたかもしれない。望月は鹿島神刀流三段、講道館柔道三段、合気三段(いずれも当時)であり、その時は「いきなり足の一本もへし折ってやろうと思いました」と。
 しかし、この武田が自分の恩師の植芝盛平の使える師匠であって、植芝は武田からのどんな難題を言われても絶対に反抗しなかった、と聞いているので、
 「わが師に見習って、がまんしました」と述べた。
 事実、白滝村の植芝の家に滞在中は、武田の着るもの、ふとんの上げ下ろし、風呂たきなど、みんな自分の手でやって忠実に使えた。
 植芝は、武田の世話をやく合い間合い間に、大東流の武術を教わった。大東流には剣術と体術の二つがあって、剣術は電光石火の居合抜き、切り返しのような鋭い技が主で、体術となると、逆手術が大部分であった。
 植芝は数字の天分が豊かであったので、大東流の体術の逆手どりが、非常に数学上からも合理的なのをみてとった。それがのちに合気道となるのである。
武田惣角の大東流にめぐり会った植芝は
「これこそ真の武道ではあるまいか」と思った。天啓のごとく、そんな思いにいたった。
 まもなく、大正7年、植芝の父危篤の知らせが来た。そのことが植芝に天の啓示となってひらめいた。
「先生、お別れいたします。私の家も、土地も一切先生に差し上げます」
武田の前に手をついて別れをつげ、身に一物も持たない裸一貫で、植芝は北海道を去った。
その帰国の汽車の中で、人からこういうことをいわれた。
「あんたのお父さんの病気は、医者でも治らん。それには丹波の綾部に出口という人がいる。その人にたよれば、あんたのお父さんもあんたも救われる」
植芝は、まっすぐ綾部におもむき、初めて出口王仁三郎に会い、父の病気平癒祈願をしてもらってから、田辺に帰ってくると、父植芝与六はもう他界してしまっていた。

五十嵐追記)
次号のコピーが欠落していますので、植芝盛平先生伝から下記を引用し、(その9)に続けていきますことをお断りいたします。
引用)帰郷途中の汽車内で宗教団体大本の実質的教祖であった出口王仁三郎の噂を聞き、与六平癒の祈祷を依頼するため京都府綾部に立ち寄り王仁三郎に邂逅、その人物に深く魅せられる。この間に与六死去(享年76)、物心両面の庇護者であった父を失い憔悴した盛平は1920年(大正9年)37歳、一家を率い綾部に移住、大本に入信する。
王仁三郎はこれを喜び、盛平を自らの近侍とし「武道を天職とせよ」と諭した。
盛平は王仁三郎の下で各種の霊法修行に努める。同年秋頃、王仁三郎の勧めで自宅に「植芝塾」道場を開設。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その9
「大東流合気術」が誕生
武田惣角の来訪を契機に

 そんなことから、王仁三郎の言いつけで、植芝は道場をひらいて信者の中の希望者に大東流の柔術や、武田惣角以前に東京で修業して免許皆伝の免状をとった新影流の剣術などを教えた。
 夜にはいると、王仁三郎がいつもよびにくるので、聖王とあがめられている王仁三郎の居室に行って、すぐそばに寝た。王仁三郎の身辺の警護のためであった。
 その間に、植芝は王仁三郎から宗教的感化を非常に多く受け、武道一方の頭に、以来宗教的な物の考え方が加わった。といっても、やはり大本の教義そのままを信じたのではなく、王仁三郎の口からもれる片言隻語が植芝の独自の宗教心を刺激したのである。
 二年もたつと、綾部の大東流道場には、四、五百人の門人が名を連ねた。植芝はその一人一人に手を取って教えるうち、大東流の技(わざ)から自分流のくふうをした新手をつぎつぎに試みた。
 そこへ、ひょっこりと北海道からやってきたのは、武田惣角であった。それが大正11年の末か12年のはじめで、大正8年の第一次大本事件の後であった。そして、植芝の教えている道場へもやってきて、稽古ぶりをみていたが、
「大東流とずいぶん違うじゃないか」
と目に角立てて怒り出した。
「ハイ、私のくふうを加えたもので!」
「では大東流ということは許さん」
植芝もとうとうカンニン袋の緒が切れて、
「ではあす道場をたたんで国に帰り、百姓をします。先生もどうか北海道にお帰りください」
武田は植芝の雲行きが変わったので、
「それなら大東流合気術としたらどうじゃ」
というので合気道は「大東流合気術」という名で、この世に誕生した。原型になったのは大東流だが、
「起倒流も磯流も、また陰流の精神もはいっています」と、翁はいう。要するに翁の独創である。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その10
王仁三郎と蒙古へ脱出
パインタラで捕わる

 大正12年の11月末、当時大阪で大正日日新聞という新聞を出して、そこの社長をもかねていた王仁三郎は、綾部に帰ってくる「植芝はん、あんたに災難がふりかかってきた。わてといっしょに逃げまひょ」と言い出した」
「仰せにしたがいます。しかし聖王はん、いったいどこへ逃げるのです」
「蒙古だす」
蒙古とは意外千万であった。しかもそれは王仁三郎側近の松村と名田という二人のほかは誰も知らない。植芝は王仁三郎護衛の金神さんとしてついて行く、かねて自分にふりかかっている災難からのがれる、という話である。
 この時の出口王仁三郎の蒙古行きについては、たくさんな話があって、それほどカンタンなものではないが、それをすべてはしょっていうと、大正13年2月13日、王仁三郎は松村真澄とただ二人で、綾部を抜け出した。午前3時の綾部発の列車に乗ったので、だれも知らなかった。
 その列車が亀岡につくと、植芝と名田の二人が待ち受けていた。一行4人の姿は、13日夜8時には下関にあらわれ、関釜連絡船「昌慶丸」に乗りこんだ。
 翌14日朝、釜山上陸、奉天に直行、午後6時半には奉天平安通りの三也商会というのに落ち着いた。
 王仁三郎は植芝に「あんたの災難を免れるために逃げましょう」といって奉天まで来てしまったのだが、彼は大阪で近く大本に第二次検挙の手がくだるとの情報を入手して、国外へ逃亡したのであった。
 しかし「国外逃亡」とよぶのは新聞記者的見方で、王仁三郎の大目的は「諸宗を統一して世界大宗教を打ち出せ」「その聖地は蒙古である」との神示をこうむって出てきたのだ、と松村に語っており、松村はそのための相談役であった。
 もう一つ言えば、日本の政府が大本を不敬罪だの治安維持法だので弾圧して禁止してしまおうとするならば、大本の本部を蒙古に移して、世界人類の救済にのり出し、もって日本政府のハナをあかしてやろうとの抵抗心が王仁三郎にあっての行動であったように思う。
 それはともかく、奉天に着くなり、王仁三郎は東三省陸軍中将盧占魁という元馬賊の頭目で、その時は張作霖の客分となっている将軍に会見し、両者意気投合して、蒙古独立をはかることになった。
 蒙古国ができたら、大本ラマ教と名乗って、蒙古一円に大本の教義をひろめようということになった。
3月3日、王仁三郎一行は奉天を出発して、自動車で開原着、そのまま昌図まで行って、そこで一泊。
 3月8日にはトウ南着。
 26日には王爺廟着。さらに公爺府に進み、後から200人の手兵を連れてやってきた盧占魁とともに、独立の旗上げをする画策中、状況が変わってきて王仁三郎はパインタラで張作霖の出先の軍に捕えられ、通遼の牢屋になげこまれてしまった。
「結局、出口王仁三郎先生とともに地獄いきじゃ」植芝もともに牢屋に入れられ、最後の覚悟をした。王仁三郎も植芝も手カセ、足カセをはめられて、死刑囚の扱いであった。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その11
大将も投げとばす
大東流を捨て独特の武術

 「出口先生とともに地獄行きじゃ」
と、植芝が覚悟したとおり、通遼監獄の中は文字どおりの地獄であった。
 食事といえば一日一食、犬の食うようなきたないお椀に、高粱飯を盛り、ノドのひきつれるような味噌汁が一杯。それを食べるのに、手カセをはずしてくれはしない。足にもカセがはまっているので、うつ伏せにころがって、ようやくお椀の中の高粱飯を一口、それを何十回もかんで、辛うじてのみこむと、次には味噌汁のお椀のふちに口をつけ、、そのふちを唇で傾けて一口のむ。
 牢屋に入れられるとき、荷物はもちろん、身につけたものは全部はぎとられて、王仁三郎も植芝も、ふんどし一つの丸裸である。
 便意を訴えると、入口の戸をあけて外へ出したが、剣つき鉄砲を後ろから突きつけて衛兵がついてくる。だから用便をすましても、尻をふくことも手を洗うこともできない。
 一週間もすると、王仁三郎一行の捕らわれていることが日本側に知れたらしく、おいしい弁当や着物が差し入れられたらしいが、衛兵が横取りしていうのである。
 「どうせおまえらは、明日にも銃殺されるのだから、持ち物や着物はあらかじめ俺たちがもらっておいた。弁当も少し分けてやろう」
 自分の弁当を泥棒衛兵からおすそ分けしてもらうのである。こうした地獄の牢獄生活は、丸十日つづいた。
 十日目に王仁三郎も植芝も牢屋から引き出されて、手カセははずされたが、足カセのまま営庭のような場所に並べられた。
 「いよいよ銃殺だ」
 植芝もここで自分の一生が終わるのかと覚悟して目をつぶった。
 ところがそれは、支那側でめいめいの写真をとるためであった。
 7月5日、一行は無事に鄭家屯の日本領事館に引き渡された。この事件は王仁三郎一行の蒙古独立の挙兵計画というのが支那官憲ににらまれたためであった。
 植芝が王仁三郎をまもって日本に帰ってきたのは、7月25日である。
 しばらく大阪にとどまって、大阪府警察本部の求めに応じ、大東流合気術をおしえたりしていたが、大正14、15年ごろは全国を武者修行をして歩いた。
 大正15年、植芝の合気術は、竹下勇海軍大将に知られ、その援助で東京にきて道場をひらき、大東流を除いて「合気術道場」の看板を出した。
 そこでは大東流をすてて植芝独創の剣術、槍術をも教えたが、ある日に山本権兵衛元帥がやってきて、槍術の試合を見た。
 植芝の電光石火の槍法は、大島流や宝蔵院流の比ではなかった。すっかり感服した山本は「わしが後援者になるからおおいにやりなさい」
 と、芝白金猿町の島津邸内の一戸を借りてくれ、そこに移って道場をひらいたのが昭和2年。
 ここへ竹下大将、山本(英輔)大将、下条海軍中佐、香下慶大教授などが習いにきたが、みな一回の練習に何十回か投げられた。下条中佐などは、道場片すみのイスに腰をかけていて、竹刀で頭をぶんなぐられた。
 山本権兵衛元帥は老齢であったが、孫にあたる令嬢を入門させて植芝武術を学ばせた。
 そのころから、合気術といって無手の武術を教えはじめたが、まだ合気道とはいわなかった。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その12
アメリカにも普及
高弟・藤平九段が中心に

 竹下大将や山本元帥の関係で、植芝道場へは海軍の少壮将校がたくさん入門してきた。
その軍人たちは、政党政治の腐敗を難じて、皇道政治を振起しなければならぬという気風がみなぎっていた。
 高橋三吉大将、百武、蓮沼両大将のほか、西園寺八郎、鮫島恭子などの名も門人長に残っている。
 昭和5年、嘉納治五郎がたずねてきて、「自分は江戸時代の体術を柔道に創案して大衆に普及したが、これは武術をスポーツ化したもので、一方において武術そのものの保存発展が不可欠と考える。合気をみると、これこそ真の武道とわかった。ついては講道館の前途有望の者を両三名預けるから、合気道を仕込んでくださらぬか」というので、講道館からやってきて入門したのが望月稔ほか2名(永岡、武田)で、あとから富木謙治もきた。
 昭和7年、現在の若松町に移り、はじめて「合気道本部道場」と名乗り、30人ぐらいの内弟子を置いた。その中に、戦後、合気道養神会道場をひらいた塩田剛三もいた。
 塩田を十段と前に書いたのはまちがいで、現在九段である。(本部道場の主任師範藤平光一も九段)
 また塩田が養神会道場をひらくまでに「俺こそ合気道二代目だ」と名乗ったことなどは決してない、と本人からの申し入れなので、筆者のまちがいとして訂正しておく。
 塩田は戦後、植芝翁が岩間に引きこもって、合気道の将来の新使命探索に没頭しているころ、東京で合気道をひろめ、工藤昭四郎や南喜一のような有力な後援者を組織したので、中興の功労者といえる。けっして養神流とでもいう別派をつくったのではない。
 塩田の合気は、植芝直伝の正統合気だが、翁にいわせると
「まだまだ修練が足らん。年とともに進みゆく最近の合気の技をもっと身につけることが必要である」との評である。
 ついでに他の高弟にふれると、八段富木謙治は合気を以て早大教授となり早大の学生に合気を教えているが、
「自分のは合気をとり入れた柔道だ」ともいっているようだ。安井早大体育局長は筆者と長年の友人だが、
「なにぶん大学生に教えるのだから、理論的に説明できる範囲の合気のようだが、大学当局としては、まあそれでもいいと思っている」との意見である。
 合気道のもっとも本道を行っているのは、嗣子吉祥丸は二代目道主に指名されている人だからいうまでもないが、主任師範の九段藤平光一が第一の立役者である。
 彼は栃木県の名門の子だが、早くから植芝翁の門にはいり、五段でハワイにわたり、同地で道場をひらいて数千人のハワイ人に合気をひろめ、ハワイ群島内に数多くの支部を作った功労者である。
 ハワイからアメリカ本土にも合気をひろめたが、二年前(昭和36年・1961)には道主盛平翁をハワイに案内して同地の多くの門弟に道主の元気で猛烈な演武を見せて、非常な感激を与えた。


変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その13
合気道は“大和の精神”
人を愛する根性の錬磨

 合気道なり、植芝盛平のすべてを語ろうとすれば、ぼう大な一冊の本ができるだろう。
筆者は、その伝記を編さん中だが、植芝翁のことを一言にして評すれば「奇跡の人」ということに尽きる。
 特に筆者が翁と知りあった戦後の岩間沈潜時代に、翁は合気道についてこういわれた。
「この宇宙は闘争の世界でなく、和の世界である。それなのに人類が互いにせめぎ合って流血をこととしているのは、今だ和の大精神が発現していないからである。この植芝は、その大和(だいわ)の理想を地上に発現させる使命をおび、合気という武技をその道具として生まれてきた人間である。私は神の使命によってこの道を行うものである」
またこうもいわれた。「合気道は、この大和の精神をきたえる方便で、技(わざ)だけにとらわれるのは邪道である。また大和の精神を堅持すれば、技はおのずから進む」
そして翁のいう和の精神とは「人と争わない魂」「人を容(い)れ、人を愛することのできる根性」であり、いたずらに人に勝とう、人をくじこうという闘争心にわき立つ相手には、その相手の力を利用してたおしてみせ、「お前のそのみじめな敗北の姿は、おまえ自身の力がつくり出した結果だ」とおしえてやる。
 したがって、あらゆる流儀の武芸家の技をも克服できる技を合気道では工夫し、それが三千手をこえたが、実際に用いられているのは、三百手ぐらい、日常的には三、四十手で足りる。その技はすべて受け身の技であった、合気ではこちらからいどんでゆく手はない。
「それでは試合にも決戦にもならんではありませんか」
うっかり聞いた時、翁は言った。
「もし、こんど人類が試合(戦争)をし、決戦したら、地上の人類は滅んでしまいますよ。今は原爆の時代ですからネ。決戦にならないよう、合気は敵に仕掛けていきません。しかし敵の四十八手は、今いう敵自身の力を返上する技でたおします。だから敵は一人相撲を取って一人で倒れるようなものです。合気には敵というものはありません。相手がかかってこなければ、それこそけっこう、それこそ和の世界です。そうありたいものです」
 世界平和七人委員の下中弥三郎が、植芝翁のこの思想を非常に珍重し、翁の道話を聞く会を毎月大田区の自邸でひらいたのは語り草である。
 翁は岩間で3年沈潜して、このような合気道をひらいた。はじめ小さな祠(ほこら)をたてて、スサノオノ命をまつり「合気神社」と名づけたのも、二代、三代と、翁の説く大和の精神のよりどころとするためである。(最近、合気神社は立派に建てかえられた)
 この合気神社のある岩間を合気道の奥の院と称し、本部を東京都新宿区若松町におき、多くの有志の協力で、道場の新築がはじめられている。元来、闘争の具であった武術を、このような平和世界実現の理想に切りかえ、それが単なる形而(じ)上の言葉だけでなく、形のある武技であらわされるというのは、世界にも類のないものということができよう。
 (おわり)

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道場長きままごと(6) 令和2年1月

令和元年12月10日、合氣道五十嵐道場新聞の令和2年1月発行号のための取材を受けました。新聞では掲載紙面の都合上、省略された部分がありました。こちらには、インタビューの全文を掲載いたします。記事中にもありますが、平成31年は、私にとりまして合気道最高位八段昇段という最高な幕開けを迎えることができました。そして令和元年を迎え、八段昇段祝賀会後の5月下旬には右目の失明、11月初旬には右肩腱板断裂、そして急性大腸炎、さらに左眼の白内障と、今までの生活を一変するような年となりました。

今年は、三が日明けの1月4日(土)、相模原市の北里大学病院整形外科に入院、6日(月)に右肩の断裂した腱を繋ぐ手術となりました。入院期間は約2週間で、主治医は種々のスポーツ・チームのドクターを務める見目智紀先生です。手術後は約1ヶ月、肩固定サポートを装着します。サポートが取れるとリハビリです。リハビリ期間は回復状態によりますが、2~3ヵ月は必要と言われています。見目ドクターからは「リハビリは手術後の骨・腱・筋肉を調整するため、とても痛いですよ!」「またリハビリを途中で止めると完全回復は見込めません!」「リハビリは終わりです、と私が言うまでは辛抱して続けてください!」とも言われています。左眼の白内障は、やはり北里大学病院の眼科で2月27日(木)に入院、翌28日(金)が手術、29日(土)が退院の予定です。白内障の手術は、本来ですと日帰りでも可能ですが、右目が失明しているので大事を取って2泊3日となりました。

その様な事で、桜の開花時期を迎える3月下旬まで、稽古・指導はお休みさせていただく予定です。4月には、完全復帰を目指しています。
よろしくお願いいたします。
以下にインタビュー記事を掲載いたします。

道場長に聞く!!
「平成から令和へ」
インタビュアー 八木一光(合気道漸進会代表)

八段位について
――― 暮れも押し迫って、ご多用の中よろしくお願いいたします。
五十嵐 こちらこそよろしくお願いいたします。

――― インタビューを始める前に、先ずは「五十嵐先生、八段のご昇段おめでとうございます。今のご心境をお聞かせください。
五十嵐 今年は、私にとって合気道の稽古を始めて55年という節目の年になります。私の合気道人生において、昭和・平成・令和と時代が代わっていく中、開祖盛平翁先生、二代道主吉祥丸先生に。そして今は三代道主植芝守央先生、合気道本部道場長植芝充央先生にご指導をいただいています。四代にわたってご指導をいただける時代に稽古できることに強い幸せと喜びを感じています。

――― そうですね。今や、開祖盛平先生、二代道主吉祥丸先生のご指導を受けたことがある人達は少ないと言えますね。
失礼な質問かもしれませんが、八段の推薦をお決めになるのは、どなたで何時頃決まるのですか? お答えできないようでしたら結構です。
五十嵐 はい、大丈夫ですよ。ご存じのように七段までは、それぞれの指導の先生が、合気会本部に推薦いたします。私なら小林保雄先生です。八木さんなら、私になります。しかし、八段位は合気道道主植芝守央先生だけの専権事項と聞いています。平成30年12月中旬に、合気会本部の推薦昇段担当師範から「本日、五十嵐師範の八段推薦が決まりました。」と電話があり、驚きと嬉しさで一杯になりました。「有難うございました。」とお答えし電話をおきました。その後、直ぐに小林保雄先生に「本部道場から今、来年1月の合気会鏡開き式で八段の昇段が決まりましたとの電話がありました。小林先生、長い間のご指導を有難うございます。」と報告と感謝の電話をいたしました。

――― 小林先生は、どうお答えになりましたか?
五十嵐 もちろん、先生は「おめでとう!」と言って本当に喜んでくださいました。小林先生門下で初めての八段になります。私にとっても大きな喜びであり、小林先生への恩返しでもあります。

――― そうですね。素晴らしい恩返しと言えると思います。でも、それは、新年鏡開き式まではシークレットなんですよね!秘密を守るのは大変だったのではないですか!
五十嵐 はい、そうでした。年賀状に八段昇段の件は触れることはできません。でも秘密って、ついしゃべりたくなるのですね。23日(日)の橋本道場稽古納め・忘年会の席上で「まだ内緒ですが、来年の本部鏡開きで八段に昇段が決まりました。」と、道場会員には小さな声で伝えました。皆から温かい祝福の拍手をいただきました。

――― その席に私もいたかったですね。先生は、いつ七段に昇段されたのですか?
五十嵐 私が、小林先生の推薦をいただき七段に昇段したのは、ちょうど2000年(平成12年)でした。七段をいただいてから19年になります。八段への昇段は、合気会本部の規定では七段から15年を要すとなっています。しかし実際は、20年は必要と聞いていましたので1年早かったので嬉しかったですね!
――― では合気会本部での鏡開き式・推薦昇段者発表の様子をお聞かせいただけますか。

五十嵐 鏡開き式は、1月13日(日)午後2時より、3階大道場を埋め尽くした国内外からの一千名が見守る中、道主による奉納演武から始まりました。
その後、今年度の推薦昇段者の初段6名、弐段3名、参段16名、四段17名、五段434名、六段198名、七段63名、八段7名、総勢744名の発表がありました。昇段者の名簿を見ると約半数が海外からであり、合気道の世界への広がりを感じました。各段昇段者代表1名と八段昇段者全員が最前列に正座して、道主、道場長の入場をお待ちします。初段から八段まで順番に、道主から直接に証状が授与されます。八段の証状は、私が最初にいただきました。合気会理事の林典夫先生から、「五十嵐さん、一番目の授与者は名誉のあることですよ!」と嬉しい言葉をかけてくださいました。正直な話をしますと、このところ左膝の具合がよくないので授与まで正座ができるか、足がしびれないか、そして膝行で道主の前まで進めるか心配でした。どうにか膝行で前に進み、証状をいただき膝行で戻ることができホッとしたものでした。
鏡開き式での推薦昇段者への証状授与を長年にわたり見てきましたが、やはり八段位となると高齢の先生方が多く、正座や膝行が難しい先生がいらっしゃいます。そんな事で正直な話、正座も膝行もできるうちに昇段させていただけると嬉しいなと、ひそかに思っていました(笑い)。元の席に戻った時、緊張が取れてどっと汗が噴き出しました。
翌日の14日(月)に、合気道小林道場の新年会があり、恩師の小林保雄先生から直接に八段の証状をいただくために出席しました。小林先生から証状をいただいたこと、小林道場内弟子時代の稽古仲間の石村さん、谷村さん、沢田さん、忍山さん、上野さん達からのお祝いの言葉が本当に嬉しかったです。

――― とても貴重なお話を有難うございます。

八段昇段祝賀会を開催

――― 八段昇段記念祝賀会についてもお聞かせください。
五十嵐 昨年5月に「合氣道五十嵐道場創立35周年祝賀会」を開催した東京町田「ベストウエスタン・レンブラントホテル」に電話を入れ、全日本合気道演武大会の翌日の5月26日(日)で予約を入れました。

――― 私も出席させていただきましたが、昨年開催の「五十嵐道場創立35周年記念祝賀会」にも勝る素晴らしい会だったと思います。準備が大変だったでしょうね。
五十嵐 はい。昨年に祝賀会開催の経験がありましたので、会員の皆さん、そして海外担当のフィンランドのヨーン・テルバカリ四段(絆の会代表)にお手伝いを願い準備に入りました。その折は、クボタ印刷社長としての八木さんには、案内状やパンフレットの印刷、記念品の制作などで本当にお世話になりました。有難うございました。

――― とんでもありません。お役にたって何よりです。先生の合宿に参加した時や、祝賀会に出席の時に思うのですが、いつも海外からの出席者が多いですね。今回も半分が海外からの参加者で埋め尽くされていたようですが?
五十嵐 今回は、台湾、韓国、ロシア、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、ポーランド、ハンガリー、カナダ、アメリカの10ヵ国から98名が参加してくれました。総勢が310名でしたから、約3分の1ですね。有難いことです。

――― 彼らは、みんな大きいからもっとたくさんいたように感じました(笑い)。先生は今まで何ヶ国で稽古・指導されたのですか?
五十嵐 そうですね。私が初めて海外に出たのが、1978年です。40年以上前ですね。上記の国以外でいうと、アジアではフィリピン、ベトナム、シンガポール、タイランド、そしてオーストラリア。ヨーロッパでは、イギリス、フランス、デンマーク、ドイツ、ギリシャ、アイスランド、エストニア、ラトビア。アメリカ大陸では、メキシコ、ブラジル、アルゼンチンになります。“アッ”忘れていました。アフリカ大陸のエジプト・カイロで一度だけ指導したことがありました。5大陸すべてで稽古したことになりますね!
何ヶ国になりますかね?

――― ちょっと待ってください。数えてみます。・・・
全部で27ヵ国です。すごいですね、尊敬します。
五十嵐 ただ長くやってきた結果です。育ててくださった小林先生、丈夫な身体を授けてくれた両親のお蔭です。そして、何も文句を言わないで海外に送り出してくれた家内まち子と、道場の皆様の大きな力です。とても感謝しています。

体調と近況について

――― 丈夫な身体と言われましたが、5月の祝賀会後に右目の失明という大病を患われましたが、今は如何ですか?
五十嵐 そうなんです。長年にわたって体力には自信満々だったのですが、5月の初めから右目の一部に幕が張ったような視力障害があり、北里病院眼科で治療していました。しかし、26日に開催した祝賀会の後、張りつめていた気が一気に抜けたのでしょうね。翌日27日(月)朝には、右目が完全に見えなくなっていました。直ぐに北里病院の診察を受けました。そして、北里病院では処置が無理といわれ、眼科で優秀な聖マリアンナ病院を紹介され転院しました。精密検査の結果、右頸動脈に詰まったプラーク(油の塊り)が、右眼動脈に血栓を起こした結果と言われました。そしてドクターから「もし、そのプラークが脳に行っていたら腦血栓となり、もっと大変なことになっていましたよ!」と、慰めと励ましの言葉をいただきました。そしてドクターから「もう右目の回復は望めません。」と言われ退院しました。これも長年にわたっての暴飲・暴食がもたらしたものと自戒しています。また、加齢をかえりみることなく無理を重ねた結果と反省しています。

――― その後、先生とは何回もお会いしていますが、片目なのに少しも憔悴している感じがしないのですが、どうなのですか?
五十嵐 もちろん、本当のところ心身的にも大いに気落ちはしていますよ。73年間、両目で生活していましたので、急には片目での生活、片目での合気道の稽古が上手くいくわけはありません。今、片目になって半年が過ぎましたが、距離感や段差など、道を歩いていても稽古していても不安感があり疲れます。日常生活の中で特に不便を感じていることは、神棚のロウソク、仏壇の線香にライターで火をつける時に距離感がつかめず、なかなか火をつけることができません。ライターのオイルがすぐなくなります(笑い)。また、手紙を書く時に万年筆を使うのですが、書いた後にキャップをはめる時に上手く入れることが難しいです。合気道の稽古では、体術はそうでもないですが、剣や杖を使う時は、間合いをはかるのが難しいといえます。平面で見るのと立体で見る違いに驚きます。
ご存じのように、大相撲の大横綱双葉山関は右目が、また合気道の佐々木将人先生は左目が見えませんでした。でも、それを感じさせることなく大活躍されました。お二人とも、私とは比べようもないほど偉大な方々ですが、お二人の存在が今、私の大きな支えになっています。八木さん、片目なんてたいした障害ではないですよ!
2020年開催のパラオリンピック出場者の皆さんをテレビの映像などで見ると、あれだけの傷害を持ちながら競技に掛けるモチベーションと笑顔は想像できないほど大きく感じます。まだ私は、大好きな合気道の稽古ができます。これほど幸せな事はありません。

――― 先生はお強いですね!
五十嵐 強くはないですよ。いい加減と言うか、諦めが早いだけです(笑い)。そして、家族を始め周りの人に恵まれていると強く感じています。たとえば、目の前の八木さんのような存在が(笑い)。

――― 有難うございます。10月31日から11月4日まで、先生の台湾指導に同行、先生の長年にわたる指導と交流を拝見して、すごく感激しました。素晴らしい機会を有難うございました。
五十嵐 台湾には、1978年に初めて訪問しました。私にとって初めての海外でした。もう41年になりますね。長い付き合いです。

――― また、帰国後に体調を悪くされたと聞きましたが、今は如何ですか?
五十嵐 そうなんです。帰国後の翌日、以前から痛めていた右肩が上がらなくなったのです。近所の整形外科に行って診断を受けたところ「右肩腱板断裂」と言われ、様子を見て手術が必要と言われました。その後、12月中旬にMRI検査の結果が出て、完全に一番太い腱板が断裂していることが分かり手術が必要と言われました。スポーツ外来で優れている北里病院を紹介していただき年内か年初めに手術となりそうです。入院が2週間ほど、リハビリに2~3ヵ月は要するとの説明でした。今は、とにかく「右肩では箸を持つ、鉛筆を持つ程度にするように!」とも言われました。とにかく安静だそうです。
そして週末に、多量の下血があり近くの協同病院に緊急入院となりました。色々な検査をしました。極め付きは大腸の内視鏡検査です。

――― それにしても、それは大病ですよ!
五十嵐 病院によっては、麻酔をしてくれるそうですが、協同病院は麻酔なしでした。とても痛く・苦しくて二度とやりたくない検査でした。“痛い!痛い”と言って男性の看護助士の手を何回も強く握り締めました(笑い)。

――― 先生、笑い話ではないですよ! 今はどうなのですか?
五十嵐 検査の結果、大腸憩室症と診断されました。急性大腸炎のようなものです。ポリープも無くガンでなかったのでホッとしました。医師からは、片目での生活、右肩の痛みなどがストレスになったのだろうという説明でした。その後の出血も無く、しばらく自宅で安静にするように言われ1泊で退院しました。2週間後の再診時に、大腸内視鏡検査の痛さを話すと、なんと「希望したら出来ますョ!」と軽い返事。思わず、「そりゃーないでしょう、早く言ってョ!」と強く思いました。もう少し患者のことを考えてほしいものです。特に私のような高齢者には(笑い)!
やはり、台湾への出張が負担になったのだとも思います。当分は、海外指導は無理だなと痛感しました。今は、道場会員の皆様に甘えて稽古指導は休ませていただいています。

今後の抱負について

――― 先生には、いつまでもお元気で、私たちを引張ってもらわなければなりません。先生の今後の抱負を聞かせてください。
五十嵐 霊能者の知人から「今は、多くの守護霊・指導霊が五十嵐先生を護っているが、これ以上無理を続けると離れていきますよ!」という厳しい忠告を受けています。病気や怪我は“神様から与えられた休暇”と、今は感謝しています。先ずは安静にして健康の回復をはかり、道場での指導に復帰することです。そして、道場での指導ができるようになったら、次は海外指導への挑戦です。次の次は、私が喜寿を迎える令和5年の「五十嵐道場創立40周年・道歴60年」を元気に迎えることです。
昨年の春に、道主植芝守央先生をお訪ねした時に『各地の道場・団体では、地域の環境も稽古に通う人達にも大きな変化があります。その変化に対応するには、10年ごとに大きな会を、5年ごとに小さな会を行うことは、道場の維持・発展には大切な事です。合気会では10年ごとに本部道場創建記念を開催しています。そして、私が80歳を迎える2031年に開催予定の「合気道本部道場創建100周年記念」を道主として迎えたいと思っています。』と、強くお話し下さったことを今、思い出します。
記念行事開催は、もちろん道場の維持・発展にとって大切な事ですが、今の私には1つの目標であり、長生きの秘薬みたいなものに感じています。
先ずは、道場での指導に復帰できましたら、今年10月のロシア心和会創立25周年への出席すること。そして、2021年6月に本部道場長・植芝充央先生をお招きして開催予定の「カナダ・カルガリー合気会創立40周年」に、ご一緒すること。次に2023年の五十嵐道場の40周年開催。次の次は、2027年に開通予定のリニア新幹線に乗って橋本駅から品川駅まで行くこと。そして、叶う事なら2031年の「合気道本部道場創建100周年記念」を、お祝いするまで頑張ろうと強く思いました。2031年は、85歳ですね!大丈夫かな(笑い)?

――― もちろん先生なら大丈夫です。
カナダも、40周年も、リニアも、合気道本部道場創建100周年も! 
先生、もう少し欲張って頑張りましょう!
2033年は五十嵐道場50周年です。お手伝いさせていただきます。
本日は、暮れのお忙しい中、また体調のすぐれない時に長時間にわたり有難うございました。
五十嵐 私こそ、たくさんの元気をいただきました。有難うございました。

取材日 令和元年12月10日(於:橋本道場)

 

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道場長きままごと(5) 令和元年7月

 今年に入り、国内行事・海外指導など、いつものように忙しい生活を過ごしていました。しかし4月下旬にヨーロッパでの2週間の指導を終え、帰国したころから妙な疲労をかんじていました。
そんな生活の中、5月初旬に急に右目に異変が生じ目の半分に黒い幕が張ったようになり、右目の半分の視力を失いました。病院通いを続け、5月下旬の全日本合気道演武大会、八段昇段祝賀会も無事に終えホッとしました。

 そんな私の体調を心配して、国内外の多くの皆様から電話、メール、お手紙をいただきました。有難うございます。ご心配をお掛けし申し訳ありません。現在の健康状態をお知らせいたします。
 実は、3年ほど前から「右頸動脈狭窄症」と診断され、薬による治療を続けてきました。しかし、5月下旬「八段昇段祝賀会」の開催後に、さらに悪化し頸動脈を詰まらせていたプラーク(油の塊り)が右目の眼動脈血栓となり、血液の流れを止め視力を失いました。もし、プラークが脳に行くと「脳血栓」となり、もっと大変なことになりました。そう考えればラッキーと言えます。
 医師の診断により、今後の治療は血液をサラサラにする薬と、血液中のコレステロールの量を減らす薬の服用で様子を見ることになりました。医師からは、更に悪化するようなら、頸動脈のプラークを取除く手術が必要と言われています。
 いずれにしても、医師から年内(2019年)は、安静にすること、禁酒、食事の制限はもちろんの事、そして長時間のフライトが必要な海外指導は控えた方が良いと言われました。
 その様な事で、今年度中の海外指導は残念ながら全てお断りしました。そして、お断りした国の皆様からは回復したら、ぜひ来年は来てくださいという返事をいただきました。有難うございます。
 今は体調が回復し、片目でも道場で稽古できるように安静に努めています。そして長時間のフライトに耐えられるようになりましたら、海外の指導にも出かけたいと強く思っています。

 合気道の友人で霊能者でもあるK氏に、現状を相談したところ「長年にわたる身体的・精神的な無理に身体が悲鳴をあげた結果である。」、そして「少し休みなさい!」という神の啓示でもあると言って下さいました。
また「五十嵐先生には、護ってくださる多くの守護霊、指導霊、ご先祖様がいらっしゃいますので、あと15年は合気道ができます。」と言ってくださいました。とても嬉しい励ましの言葉でした。
 あと15年と言うと、私は88歳です。ちょうど米寿を迎え、合気道歴も70年です。そして五十嵐道場も50周年です。大きな目標となりました。
しかし今は、片目での生活に慣れないため目が疲れ、また後頭部がいつも重くイライラ状態が続いています。
 お付合いのある医師に聞いたら「73年間、両目で生活してきたのに、突然片目になったことに腦が動揺して“片目で見なさい”という命令がまだ上手にできていない。」「人間には自然治癒力があります。脳が“君は左目だけで見るのだよ”と指令してくれるまで時間がかかるのは当然!待ちなさい。」というお答えをいただきました。

 パラオリンピックが2020年に東京で開催されます。片目が見えなくても小さなことです。もっと重いハンディキャップを持つ人たちが記録に挑戦しています。
 私は、この大病を1つの契機とし、これからは合気道の更なる境地を目指し、日々の稽古を大切にし、また指導にも努力し続けたいと強く思っています。今後ともご指導・ご支援をよろしくお願いいたします。

6月22日(土)、見舞いに来てくれた孫3人にパワーをもらい、1カ月ぶりに稽古衣を着て稽古に参加しました。しかし15分ほどで孫パワーに負けギブアップしました。
孫のためにも88歳(?)まで頑張ります。

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道場長きままごと(4)

五十嵐道場長
旭中学校区小中合同夏期研修会において講演!

 
テーマ「心のバランスと身体のバランス」
~子どもの持っている可能性を引き出すには~


 五十嵐道場長は、8月24日(水)10時~11時30分まで、相模原市橋本駅前の「ソレイユ・セミナールーム」において、上記のテーマで講演を行った。旭中学校区とは、相模原市立旭中学校と、同校に入学する、3校の小学校(旭小学校、宮上小学校、橋本小学校)の組織です。旭小学校は、五十嵐道場から徒歩4分ほどのところにあり、道場長の3人の子ども達も、旭小学校、旭中学校の卒業生です。
道場長は、まず始めに、8月初旬の朝日新聞に掲載された、中学校の部活についてのアンケートに触れ、以下の話から講演会に入りました。

 学校側の思い入れ、顧問先生の思い入れ、保護者の思い入れ、そして生徒の思い入れ、お互いの思いが一致する難しさがあります。海外、特にヨーロッパでは小中学校での部活などの話はあまり聞いてことがありません。ヨーロッパ、とくに北欧ではコミュニティーが発達しており、地域ごとに立派な文化・スポーツ施設が充実しており、いろいろな種目で子供たちが充実した余暇を楽しんでいます。日本では、勉強、進路、放課後の部活、など、何から何まで先生任せで、アンケート結果では、小・中学校の先生方の忙しさは、世界一とあります。また、同新聞に「学校のトイレに行けない小学生」の記事が載っていました。和式、洋式のトイレ、そして個室の設置など興味深い内容でした。運動能力から言うと、各家庭のトイレが和式から、洋式に変わったことが、子供たちの足腰の弱さにつながっていることは確かかと、私は思っています。学校で、トイレに行くことを我慢している子が多いとは、驚きです。先生方のご心労は大変なものだと感じました。
 これからは、合気道生活を通じ学んだこと。武道を通じ、多くの先生から学んだこと。また今までに読んだ本から学んだことなどを含めまして、少し話させていただきます。

道場の子供クラス
 道場では、4歳から小学校6年生までを子供クラスとして稽古しています。子供の運動感覚は、4~5歳から、にわかに発達してきます。また、精神的にも発達する大切な時期であり、幼稚園から小学生までの教育・経験というものが、その子の一生を左右するとも言われています。運動神経の鈍い子、内気な子、またいろいろな性格を形づくるのが、この時期であり、幼児期までの生活環境によります。橋本地区はまだまだ恵まれていますが、近年は、子供たちがのびのびと飛び回ることのできる広場も少なくなっています。さらに、デジタルの社会が広がってきて、部屋の中に閉じこもる子供たちも多くなり、ますます外に出かける機会が少なくなってきています。また、外に出てもスマホをいじるだけ、友達との会話もスマホ、ラインという嘆かわしい時代になり、子供たちの運動能力、コミュニケーション能力がますます落ちてきています。
 自然に触れ、外気に触れ、身体・心を使って五感を鋭くする、五感を研ぎ澄ませる機会がますますせばめられています。五感は、思考能力、判断力、危機管理能力につながる大切なものです。
 武道・スポーツは、これらの五感を鋭くします。さらには、第六感を鍛えるには最適なものであるといわれています。
第六感は、特に幼児期には強く働き、年と共に減退してきます。
 反射神経もそうです。鍛えなければどんどん落ちていきます。ちなみに西洋スポーツは運動神経、武道は反射神経の世界であると以前にスポーツ関係の本で読んだことがあります。“三つ子の魂は百まで”、“芸事は六歳の誕生日から”と昔からよく言われています。これも何か意味の深いものがある言葉と思います。子供の時にどれくらい色々な事をしたかと言う経験が大切なのではと思います。
 話が元に戻りますが、このような現在の環境の中、最近は武道の道場やスポーツ教室などの存在がクローズアップされてきています。日本古来の武道は、動的な活動と静的な面とが相伴っているのが特徴です。稽古前後に行う正座での黙想、先生が指導中は正座をして聞く、などよい例と言えます。運動の間中、緊張しなければならないスポーツとは違う点です。また、合気道には試合がありませんので子供たちも“勝ち負け”にこだわることなく、のびのびと稽古しています。
 道場には、本当にいろいろな子供たちが通ってきます。子供クラスですので、子供が率先して合気道をやりたいと云うことは少なく、保護者の方が、子供にやらせたいと言って道場に来るのがほとんどと言えます。入会に当っては、保護者の方から、「うちの子は、身体が弱いから強い子にしてください」、「うちの子は、内気でおとなしいので元気な子にしてください」、また反対に「うちの子は、元気すぎて腕白なので、落ち着きのある子にしてください」、その他にも、いじめっ子、いじめられっ子、ふとった子、等々。いろいろな子が入会してきます。保護者の方の様子を見ますと、その子の育った環境が分かるときもあります。
 私の小さいときは、言うことを聞かなかったとき、悪いことをした時など、母親に、「お天道様が見ているよ!」、「先生に言うよ!」、「お巡りさんに言うよ!」、「お父さんに言うよ!」が、決まり文句でした。みんな怖い存在でした。今はどうでしょうか? “お天道様がみているよ”なんて言っても、子供たちには通じないでしょうね!
 道場では、子供たちをいったん預かったあとは、良いことをした時、上手に出来た時にはホメます。また、言うことを聞かなかった時、悪さをした時には大声で、本人がなぜ怒られるのか「心と身体」で納得・理解するまで真剣に怒ります。合気道は、武道、武術ですので、子供クラスとは言え、少しの気のゆるみが怪我につながってきます。おかしなもので、大声で怒られること、また頭をコツンと、たたかれる経験が少ないのか、最初は戸惑った顔をしますが、子によって、すぐに納得する子。また叩かれるのを嫌がらず、かえって喜ぶ子もいます。一人っ子や、甘えん坊に限って、怒られること、コツンとやられることを喜ぶようです。面白い発見です。
 そんな中、目には直ぐには見えませんが、稽古を続けるうちに、子ども達がいろいろと変化してきます。保護者の方には、最初の昇級審査で色帯を締めるまでの、少なくても1年は見てください、と言っています。子供たちは、審査で級が上がり、色帯が変わることを大変喜び、頑張るようになります。
 現在、理解力、体力、運動能力のそれぞれ異なる4歳から、6年生までの子ども達
を一緒のクラスにして指導しています。稽古後に、“アーア疲れた”、でも楽しかったと、言ってくれるように指導しています。
 普段の稽古中や、一年に1回行う合宿、また演武大会などを通じ、高学年の先輩の子が、低学年の小さい子の面倒を見る。運動の得意な子が、苦手な子を助けるという思いやりのある子に育つよう指導しています。また、新しい子が入会した時には、先輩の子に道場への出入り、礼の仕方、稽古衣の着方など、を教えるように指示します。みんな結構真剣に上手に教えてくれます。少しぐらいの間違いは注意しません。そして必ず、手伝ってくれた子供には“有難う”を言います。そして手伝ってもらった子には、手伝ってくれた子に“有難う、と言ったかい?”と聞きます。言っていたらOK! まだ、言ってなければ、必ず礼を言うように指導します。そしてさらに、“今度新しい子が入ったら、君が教えてあげてね!”と約束します。そうすると面白いですね! 新しい子が入るとその子が、「私が教えます」と、言ってくれるようになります。指導者として助かりますし、またとても嬉しいことと言えます。

子どもクラス合宿
 一泊二日、または二泊三日で、山や海のそばで行う子供クラス合宿は、一班5~6人で班を作り、それぞれ班長、副班長を決め、集合から解散までしっかり彼らに管理させます。また食事の準備、片付け、布団敷き、布団の後片付けも班長・副班長に責任を持たせています。そしてご褒美に、合宿の最後に、班長さんには金メダル、副班長さんには、銀メダルを。そして高学年だろうと、小さい子であろうと、班長さんの言葉をよく聞いて頑張った班員さんには、班長さんの意見を聞き、銅メダルを挙げます。そして、“来年、班長さんをやってくれる人”と聞くと、初めて参加した小さい子から大きい子まで、一斉に手を挙げてくれます。基本的には、この年に副班長さんをやった人を班長に、副班長さんには、銅メダルをもらった頑張った子から選びます。できるだけ多くの子に班長さん、副班長さんを経験してもらうようにしています。
 合宿所では、できるだけ20人以上が泊まれる大部屋をお願いしています。今の子供たちは、兄弟、姉妹が少なく、一人部屋で育っている子が多く、大部屋での生活に慣れていません。そんなことで、自分中心になりがちです。一緒に食事をし、一緒に同じ部屋で寝る。大部屋でいろいろな年代の子供たちと楽しく遊ぶという経験は、大人になって生きていくためにはとても大切な事だということが分かってくるのです。やさしくて思いやりがなければ、長い時間みんなと一緒に生活できないということに、そのような生活の中で気付いていくのだと思います。

子どもクラス指導目標
 道場の指導目標は「仲良く、けがのないよう、楽しく、厳しく」です。子供クラスでは、合気道の技を覚えるのは骨格のしっかりしてくる中学生からでよく、とにかく体力をつけることに重点を置いています。そして礼儀・言葉使いなど、躾にも気を付けるよう指導しています。
 ここにいる入江指導員にも常日頃、言っていることですが、“君と道場の子供たちとは決して友達ではないのだよ! 君は、彼らの先生なのだから、責任と自信を持って言葉使い・礼儀をしっかりと指導しなさい”と言っています。そして、小学生に限らず、指導者として立った時には、稽古であろうと、会話をする時であろうと、「伝えようとするエネルギー」、「からだ全体から発するエネルギー」が必要だともよく言っています。いっぱいのエネルギーには、子供たちも、身体全体からのエネルギーでこたえてくれます。
 「からだ全体から発するエネルギーって、なんですか?」と、よく聞かれます。このように答えています「先ず、自分自身に自信を持つこと。そして相手の目をしっかり見て、大きな声を出すことだ」と言っています。気合のこもった大声は筋力、行動力を10%アップさせるといわれています。体内のアドレナリンがアップするのです。これは怪我防止にもつながり大事なことと言えます。中学生になると子供クラスから、大人クラスへと移行します。大人クラスは、年齢も10代初めの中学生から70歳、80歳まで、合気道の段位も初心者から、七段の高段者まで一緒に稽古しています。
 最初は怖がって、中学生同士で、コチョ・コチョと道場の隅っこでやりたがりますが、大人の中に放りこみ、積極的に大人の人と稽古するようにさせています。世代、実力の違う人、海外の人たちとの自然な交流は、学校生活では絶対経験できません。とても良い経験になり、人間力の向上になると思っています。これも試合のない合気道、そして町道場の特徴かもしれません。

武道の役割について
 先生方もよくご存じと思いますが、平成18年に改正された教育基本法に、教育の目標として「伝統と文化を尊重し、それをはぐくんできた我が国と郷土を愛すること」と定め、我が国の文化と伝統を尊重する態度の育成を重視することになりました。そして体育については、諸外国に誇れる日本固有の文化として、歴史と伝統のもとに養われてきた武道を必修化しましょう、と決まりました。武道を長くやってきた者として、子供たちの体力の低下と、豊かな心や健やかな身体の育成に、武道がお役にたつ事は嬉しいことです。
話が飛びますが、アサヒビールの名誉顧問でいらっしゃいました中条たかのり氏が「世界の歴史が説く民族滅亡の三原則」という興味深いお話をされています。
 1.理想・夢を失った民族、 
 2.すべての価値をものでとらえ、心の価値を見失った民族、 
 3.自国の歴史を忘れた民族
また、イギリスの歴史家のトインビーも面白いことを言っています。
「12~13歳までに民族の神話を学ばなかった民族は例外なく滅んでいる。」と。私が、つい先日まで滞在しましたフィンランドにも「カレバラ」という神話があり、絵本、教科書にも取り上げられ、子供から大人まで、とても大切にされています。
 日本も歴史と伝統を見直し大切にしなければと強く思っています。

スポーツと武道について
 こんにち、世界の人々の間で多くのスポーツが行われています。最近では、ブラジル・リオデジャネイロで、オリンピックが先週まで開催され、種目も28競技306種目を数えています。これらのスポーツでは、そのスポーツが発祥した国の人々の「ものの考え方」や「行動の仕方」が、そのスポーツの規則やマナーとして大切にされています。
 スポーツは狩猟民族から発生したものが多いと、よく言われています。狩猟民族は、お互いに声をかけながら獲物をグループで追い込んでいくので、団体スポーツが主流(サッカー、バレー、バスケット、ラグビー、アメフト、など)。一方、農耕民族の日本は、ひとり一人が黙々と作業していくので一対一の武道が多い(剣道、柔道、空手、相撲、合気道・・・。)と言われています。もちろん、武道とスポーツの性格には共通する部分も多くあります。
「武道は礼に始まり礼に終わる」
 リオ・オリンピック男子柔道73キロ級で優勝した大野将平選手の態度が、とても評判になりました。大野選手は五輪の舞台で勝利を重ねても、他の選手のようにガッツポーズをしたり、笑顔を見せることは決してしませんでした。金メダルを獲得した瞬間でさえも表情を変えず、深々と礼をし、決勝の相手(ルスタフ・オルジョフ)と握手を交わし健闘を讃えあいました。その理由は「心・技・体、すべてで外国人選手に勝つこと」という彼の信念が大きく関係しています。「礼に始まり、礼に終わる。相手への思いやりを忘れず、美しい最高の日本柔道を見せることを第一に考えていました。」とインタビューに答えていました。また、100キロ級男子柔道で、1本負けした外国選手が、対戦相手との、握手も最後の礼も拒否して退場したのには驚くとともに非常に不快な思いをしました。しかし、後で新聞に載っていましたが、お互いの国が政治的にうまくいっていないことがあるそうです。しかし、「オリンピックでしょう!武道でしょう!」と、思ったのは私だけでしょうか!?
また、日本と、海外での礼の仕方、挨拶の仕方の違いについて、よく話題になります。私も、年に数回は海外に出ます。欧米では、握手をします、それも男同士だと、できるだけ強い力で自分の力を誇示するように握手をします。そして相手の目を見るのは、もともと利き手を相手にゆだねるので警戒するところから出ています。
日本人は、握手になれていないので、つい照れくささから相手の目を見ないで握手をします。相手の目を見ないのは本来、負けを意味することになります。
つい先日まで行われていました、オリンピックでの表彰式でよく見られましたが、おたがいの左右のホホをつけあう挨拶もあります。ニュージーランドでは、鼻をつけるというユニークな挨拶が行われています。また今でも、私はハグが苦手です。特に女性とのハグは、この歳になっても、つい赤面してしまいます。このような挨拶は、「親しみ、親愛」を表しています。
そして、オリンピックで、よく見る光景ですが、試合後に対戦者同士で、お互いに健闘をたたえあってハグや握手をしています。日本での頭を下げる礼、そして稽古を始めるときに行う礼などは、相手を「尊敬、敬愛」する動作にほかなりません。最近では、挨拶ができない人、苦手と言うか下手な人が残念ながら増えています。

「気・心・体」について
昔は、「合気道は気合で人を倒すのですか?」と、よく聞かれたものですが、最近は、さすがにそのようなことは少なくなりました。五十嵐道場の宣伝文句(キャッチコピー)は、「心と身体の健康のために合気道の稽古をしませんか!」です。武道は総じて、「心身いちにょ一如」と言われますが、心の使い方、身体の使い方を考え稽古します。心と身体の健康、リラックスが本当に美しい身体を作るものと思っています。美しいものを見て、素直に美しいと感じる心。それを素直に身体で表現できる人、このような人が本当に強く美しく優しい人と言えます。また、「行動は心をつくる」と言われています。
マザーテレサが、『相手の目を見て微笑む、手に触れ、ぬくもりを伝える。そして短い言葉をかける。愛は言葉でなく、行動である。』と言っています。心と身体のバランスの取れた言葉と言えます。
日本には、「気」の付く言葉が多くあります。「元気がいい、気が利く、気になる、
気分が良い、気持ちが良い、気力、気心、天気、病気、気うつ、内気、」等々。親しい友のことを「気の合った友」、「気心知れた仲」などと表現します。
また、武道では「気・心・体いちにょ一如」「気は心のとびら」など、気の作用が心、身体を動かすと考えています。また、合気道は「心が身体を動かす」と言う道理があります。海外では「Mind moves body」と説明しています。
身体の動きの「みなもと」は、ふた二つあって、ひとつは頭の脳の命令によるものと、もう一つは気・心を原点としているものであって、前者を顕在意識、後者を潜在意識
と言えるのでは思います。顕在意識・潜在意識は「よく氷山に例えられます」。氷山の90%以上は水面下にあり、私たちが普段使っている能力は、遺伝子情報、そして経験・勉強などで培った知識、身体能力などが、脳にインプットされ顕在意識となります。水面に出ている氷山と同じようにほんの一部であります。水面下にある90%以上の使われない意識が潜在能力となり、よく言われる「火事場のばか力」の原動力になるものです。武道、スポーツ、子ども時代の楽しい遊びが、この潜在能力を引出し、力となってくれます。人間の眠っている潜在能力にスイッチを入れる重要な「気」の本質は、心にあると言えます。
「努力は裏切らない!」、「目標は、人をつくる!」、「我慢と努力はすべてを制する!」など、スポーツ根性ものによく出てくる言葉です。心のバランスと身体のバランスが、うまく働いた時は、素晴らしい効果を見せます。そして、そのバランスが崩れた時は、アキラメと挫折となっていきます。バランスをみきわ見極めることは、至難のわざ業です。
先日のオリンピックの女子レスリングの吉田さおり選手の小さい時の、父親との会話がテレビで紹介されました。さおりさんは、レスリングの試合に負け、試合相手がきれいな金メダルをもらうのを見て、「あのメダルが欲しい!」と父親に訴えたそうです。それに答えて、父親は「メダルは、スーパーでは売っていない。ガンバッタ子しかもらえない!」と言ったそうです。それからの吉田さおり選手の努力、結果は皆様よくご存じのものです。
また、シンクロの井村監督が、選手が銅メダルを取った後のインタビューに答えて「2014年に、監督を引き受けた時は、選手たちは、シンクロが、ただ好きな集まりだと思いました。この選手たちがオリンピックでメダルを取るためには、厳しい練習、つらい練習が必要。そして体力が消耗して最悪になった時、それを超えさせる。そのような練習が必要と思い1日に10時間以上の練習を課しました。そして今は、メダルが取れるようなアスリートになってくれました。」と、満面の笑顔で答えていました。指導者としての厳しさを感じました。とても私には、このような指導は出来ません。
スポーツ選手として成功することも大切でしょうが、ごく一部の人たちです。生意気のようですが、教育とは一般的には成人してから立派に、健康に社会人として生きていくために行うものと思います。

最後にあたって
教育評論家の先生のお一人が、「小・中学校での子供たちの教育には、学校での教育、家庭での教育、そして地域社会での教育、この3つの役割分担があり、それぞれに踏み込んではいけない垣根があると思います。家庭には家庭でしかできない大切な教育がありながら、親が自分の役割がどうあるべきかをわかっていないから子供に教えることができない。当然そういう家庭は、学校との境界線もわかっていないので、何でもかんでも学校の責任にします。家庭の役目は、子供の感性を育て、早い時期に子供の適性をみいだ見出してあげることだと思います。これは、子どもへの躾と同様に家庭でしか出来ないものと思います。」と述べていました。
私たち武道道場は、地域社会での教育の一翼を担っているのでしょうか! 頑張りたいと思います。先生しかできないこと、保護者しかできないこと、子ども達しかできないこと。互いに言いたいこと、伝えたいこと。コミュニケーション能力が落ちている今、先生からの発信だけではどうにもなりません。受け皿である保護者、地域が一体となり、生徒のためにも、つながりを深める必要があります。私たち現代人は、過去の日本人が大切にした「礼儀と道徳」を忘れ、自分が良ければ」と思い、甘えすぎているようです。
如何でしたでしょうか? いただいた『テーマ』から脱線したところが多くて申し訳ありませんが、本日のテーマ「心のバランスと身体のバランス」、子供の持っている可能性を引き出すためのヒントに少しでもなれば幸いです。
私自身、このようにお話させていただいていますが、分からないところ、できないところが、まだまだ多くあります。
合気道の現道主植芝守央先生が常々「日々の稽古を大切に」、「継続は力なり」とご指導されています。これからも動ける限り稽古を続けたいと思っています。
そろそろ合気道のご紹介に入りたいと思います。

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道場長きままごと(3)

~飛行機で、2日~3日をかけてアルゼンチン・ブエノスアイレスへ~

 私は、平成26年11月17日(月)から27日(木)までの11日間、アルゼンチン・ブエノスアイレスに指導に行って来ました。日本の反対側にあるとても遠い国です。
 どれほど遠いのかお話しいたします。17日は、午前11時30分に自宅の橋本を出発しました。成田空港に到着、夕方5時発のユナイテッド航空便で乗換の米国・ヒューストンに向かいました。到着時間は現地17日午後1時間45分、飛行時間は11時45分です。日本時間で翌日18日(火)午前4時45分です。
ヒューストン空港で9時間という長い待ち時間の後、乗継便で最終地のブエノスアイレス空港に到着したのは、現地時間で18日(火)午前11時30分、飛行時間10時間30分です。日本時間で同日の午後11時30分です。自宅を出てから、なんと36時間後です。実に遠いです。エコノミークラスでの長時間ですので、膝も腰も悲鳴を上げています。そして12時間という時差で頭も混乱です。しかし、このような遠い国から、平成25年開催の五十嵐道場30周年記念行事にアルゼンチンから6名が参加してくれました。嫌な顔を見せるのは遠慮しなければならないことです。
 アルゼンチン合気道連合責任者のダニエル先生、橋本道場で3ヶ月間、内弟子同様に稽古したナウエル初段、日本人の東野朗子さんの出迎えを受け、講習会場のあるラ・プラタ市に向かいました。到着当日は、気温が32度と真夏のような暑さでした。しかし翌日からは雨・曇の日々が続き気温も20度以下の過ごし易い日が続きました。講習会は、20日(木)~24日(月)、同市の体育館に80枚の畳を敷いて5日間行われました。子どもクラスを1回、一般クラスを8回指導しました。昇段審査も行い、弐段が6名、初段が1名合格しました。彼らの受験課題のエッセイが、ホームページに掲載されます。とても真摯に合気道に向かい合っていることがわかります。
帰国は、現地25日(火)午後10時25分発(日本時間26日午前10時25分)のユナイテッド航空で乗継地のヒューストンに向け出発しました。ヒューストンまでの飛行時間は10時間35分。同空港で4時間40分の待ち時間の後、乗換えて成田空港に着いたのが、27日(木)午後4時でした。飛行時間は14時間10分、都合24時間45分という長旅でした。
 そんな長旅で、もう年寄りの私には「もう無理だ! もう来たくない」と思いながらも、ダニエル先生の「2017年4月のアルゼンチン合気道連合15周年記念には、また来てください」という誘いに、つい「YES!」と言ってしまった私でした。

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道場長きままごと(2)

 先日買い求めた“PHP11月号”の「特集:人づきあい」の中で、俳優加山雄三氏が、自身の心に残る言葉を述べております。とても素晴らしい言葉でしたので紹介します。
「思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい。それはいつかあなたの運命になるから」
素晴らしい言葉であり、また怖い言葉とも言えます。私はこれを読んで、思わず“ドキッ”としました。思い当たる事が多々あったからです。皆さんは如何でしようか?
感謝の気持ちは思いやりに変わります。思いやりの心には温かさが宿ります。植芝盛平翁先生は「武は愛なり」、「合気道の合は愛に通じる」、「合気道は感謝の武道」と言われております。
 私は、明治大学入学と同時に合気道部に所属、18歳で稽古を始めて48年になります。しかし、上記の合気道哲理を翁先生の万分の一も心身ともに理解の境地には至っていないようです。二代道主植芝吉祥丸先生が、お話してくださった「合気道のおもしろさは50代、60代になってからだよ!」の言葉のように、合気道は私にとりまして十分におもしろくなっているのですが、60代半ばの最近は、合気道の難しさはもちろん、「強さって、なぁーに!」と考える日々を過ごしております
四段昇段エッセイに、カナダ・カルガリー合気会のマッチエ・スロット氏が、下記の言葉を彼のエッセイ「初心者の指導の仕方について」の最後に記しておりました。
『稽古に一番大事なのは純粋な「初心」だと思います。鈴木俊隆先生が言っておられます。「初心者の心には多くの可能性があります。しかし、専門家といわれる人の心には、それはほとんどありません」と。』
 私は恥ずかしながら、鈴木俊隆先生を存じ上げておりませんでした。調べてみると、鈴木俊隆(しゅんりゅう)先生は、曹洞宗の僧侶でアメリカに禅を広め、著書も多い高名な先生でした。日本の伝統を、日本の歴史を外国人に教えられることが最近多いようです。今や、真摯に武道の稽古に取り組む外国の方々の方が、日本人より日本の伝統、日本の歴史、また合気道のこと、開祖翁先生のことを理解しております。マッチエ氏のエッセイにある「専門家といわれる人の心には、それは(初心の心)ほとんどありません。」という鈴木先生の言葉は重いですね。合気道の専門家である私の心に“ズシン!”と響いています。“稽古後のビールが美味しい”などと言っている場合ではないなと、感じております。ただただ反省する次第です。また反省会です。

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道場長きままごと(1)

橋本道場で熱心に稽古する、ボダルト・ベイリーさんが、最近「ケンペル・礼節の国に来たりて」という本を出版されました。彼女は、大妻女子大学比較文化学部教授で、五代将軍徳川綱吉の研究で有名な歴史学者です。ドイツ人のケンペルは約10年の長い旅の末、1690年(元禄3年)に日本を訪れ、2年間滞在しました。その間の長崎での日々、将軍徳川綱吉との出会い、道行く人々・・・・。彼の日本での経験は、死後「日本誌」として発表され、初めて日本の全体像が”正確かつ偏見なく”ヨーロッパに紹介されました。
 その本に「いつも、町の人々の生活の中に秩序と品の良さがあることに強い印象を受けた」、また「人々の生き方を見ると、非常に貧しい農民からきわめて高い君侯に至るまで、まるでこの国全体が礼儀と道徳を教える高等学校であると呼んでもよいくらいだ」とケンペルが書いています。
また、明治大学合気道部の部誌「吾勝」に、部長の杉山民二農学部教授が「測定実験の向上もラーニングで」のテーマで、興味深い原稿を寄せておられますので一部をご紹介します。
 『私たちの日々の生活の中で手を動かして操作する事が、極端に少なくなってきたように思う。たとえば、洗面台の水洗器を回すことなく、蛇口に手をかざせば自動的に水が流れてくるので、手を洗う事が出来る。日常生活がセンサーの働きで自動化されるに連れて、日々の生活の中で繰り返し扱う事で体得した「力加減をして操作する」ことがなくなってきた。このことが理科系の研究活動に困った事態を招いている』と述べ、ガスボンベのバルブ、等の開け閉めの力加減の“いい加減さ”からトラブルが多発していると言っておられます。
 本来「いい加減」は「良い加減」の事であったのですが、最近は「あいつは、いい加減なやつだ」というように悪い表現に使われる事が多くなりました。
合気道は武道の一つですから、力加減一つで怪我をすることもあります。また悲鳴を上げるほど痛いこともあります。これも痛みを知らない世代に多く見られることです。しかし稽古を経てくると、自分の痛みも人に与える痛みも、自分の身体を通して理解できるようになります。
 文部科学省が、平成24年より武道教育を中学校の保健体育の時間に必修科目とする英断は画期的と言えましょう。
ケンペルが感じた「日本人」、杉山先生が感じた「加減」について、考え直す時が来たようです。私たち現代人は、過去の日本人が大切にした礼儀と道徳を忘れ「自分がよければ」と思い、また自動化でなんでも便利になった生活に甘えすぎているようです。

引用文献
1.ミネルバ書房「ケンペル・礼節の国に来たりて」ボダルト・ベイリー教授著
2. 明治大学合気道部部誌平成21年度版「吾勝」杉山民二教授寄稿文

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