道場長きままごと(7) 令和2年8月
“変わりダネ日本人 [植芝盛平]”
今年の1月に、「変わりダネ日本人・植芝盛平」その1、2を掲載いたしましたが、全文の準備ができましたので、その1から13まで一挙に掲載いたします。
令和元年末、断捨離で本棚を整理していた時に、東京タイムス(昭和38年頃)に〝変わりダネ日本人[植芝盛平]″というタイトルで連載されていた「開祖植芝盛平翁先生」のインタビュー記事のコピーを発見しました。きっと以前に、小林保雄先生より頂いたものと思います。すべてが揃っていませんが、興味ある内容でしたのでご紹介いたします。なお、なにぶんにもコピーといっても昔の青焼きコピーの関係で不鮮明で読み取れない部分、また記述内容・言葉使いが令和の時代にそぐわないところは勝手ながら修正およびカットしてあります。ご容赦のほどお願いいたします。(インタビュアー 池田一彦)
変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その1
合気の試合やめる
他流の巨漢を不具にして
いく通りかの合気の型を見せて、道場からもとの座敷に戻った翁は、「わしは50歳からこっち、試合というもんを一切いたしまへん。他流試合はもちろん、合気同士の試合でも、必ず相手を傷つけることになりますさかい。」
のちになってわかったのはこういう話だ。翁が50歳をすぎたころ、ある日、道場へ身のたけ6尺、体重30貫、腕は鉄のごとく、腰は大石臼のごとき巨漢があらわれ、「わしは鹿島神刀流免許皆伝の者じゃ」と試合を申しこんだ。
その男はいかにも強そうであった。鹿島神刀流といえば、3尺の長剣をふるってまっこう正面から切りこむ一刀が、電光石火、目にもとまらぬ技がもはや人間業ではなく、文字どおりの神刀だといわれていた。
そんな、魔剣の正面に立った植芝翁は、「よろし」。試合開始の掛け声とともに、ツツーと進んで、相手が大上段にふりかぶった木刀の剣先に進んだ。そうすれば間合いが詰まって、相手の打ちこんでくる力がかえってにぶる。はなれているほど、向こうの打撃力は強くなる。つまり加速度の原理だ。
「えーいッ!!」
ものすごい叫び声もろとも、もろ腕の力かぎり、敵は木刀を打ちこんだ。巨体で突進してきて、同時に体あたりの戦法であった。これでは小男の植芝は、脳天を打ち砕かれたうえ、道場のすみっこに、雑巾のごとく横死させられる!。
非常に危険な、とうてい道場での試合とは思えぬ殺人剣であった。
「うむ!」と、一切をさとった植芝は、とびのきもかわしもせず、そこに突っ立ったまま、スッと斜めに身をひらいた。
植芝には、相手の打ちおろしてきた木刀の先端が弧を描く、その「弾道」がみえていた。「弾道」のわずかに7、8寸の外側へ、自分の体をかわしたのである。
「かわすという技法は、3尺も5尺もとびのくのは下で、わずかにスレスレに身をかわすのが中、もとの位置にいて、相手が勝ったと思うくらい、ほんの5寸だけ剣の落ちてくる外側へ身をひらき、その剣に空を打たすのが上」
とは、これまたのちにきいたところだが、この時がそうであった。その男の目には、とびのかない植芝の体がみえ、「打った」と思い、満身の力で植芝の体にぶつかった。もし、その男の予期したとおりであれば、植芝盛平は鹿島神刀流のために殺されていたであろう。
しかし、ぶつかったと思う植芝のからだのそばをスーッと通り抜けて、男の巨体は、恐ろしい勢いで道場の羽目板にぶつかっていった。そしてそのまま気絶した。
手当を加えたが、右肩が砕けていてもとのからだにはならず、武道廃業のほかはなかった。
「あの人も、自分の力で大けがをしたんやが、わしがチョイと手出しして、途中で止めて倒してやれば、羽目板まで行かずにすんだのにと、つくづく考えこんでしまいました。
それ以来、合気では試合をやめましてん。」
変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その2
女性まじえはげしい修行
“力にたよれば必ず負ける”
それ以来、合気では道主植芝翁自身だけでなく「一切の試合」を禁じた。したがって道場での技は型を見せるだけとなった。しかしそれにも相手がいる。
そして道主の相手になるのは、よほど練達したものでないと勤まらない。
翁のはげしい声に向かって、サッと木刀を打ちこんでいくと、翁のからだはわずかに横にひらいて相手を手もとにひきつけ、トトトと泳ぐのを、「ソーラ」と、かるく技をかける。すると、羽目板まで行かず、相手は途中でラセン形にまわってたおれる。
「止めてやるのが合気です。けがをするのは自力です。合気は“愛気”で、相手を愛して、そうら、そんなに力を出すと、負けるよ、ということを実地に教えるのです。しかし他から教わるだけではいけません。“愛される”だけではいかん。師範と対等に“気を合して”まず自力に打ちかつ、という修業が初伝です。それを“アガツ”といいます。」
と道場長吉祥丸さんの説明。「アガツって何ですか?」
「“吾勝”と書きます。吾に勝つ、という境地です」。かたわらから翁がいうには、「人の力には、いくら強いといったって限りがあります。その力で行こうとすれば、必ずやぶれます。日本のやった大戦争がそれでした。日本の武道も力わざである限りは、邪道のものです。
しかし、武道において力を否定すれば、一見武道を否定しているようにみえる。
力を否定する武道というものがあるのだろうか。大東亜戦争の始末をみて、わしは深い悩みにとらわれ、岩間の奥ノ院にこもって3年間、思い悩みました。修業をしなおしました。そして、やっと戈(ほこ)を“止”めるのが、“武”であるゆえんを悟りました。これが吾勝の境地です。
吾勝を越えた合気の修行者は、相手のいかなる暴力をも、かるく止めてしまう技を身につけます。こちらから相手を打ち倒すのではないから、もはや武器はいりません。無手です。無手で相手の剣に対し、切りこんでくれば、かるくかわして、相手の力を去(い)なし、そのあとで、〝そうら″自分の力でたおれるんだぞ、と相手をたおします。
むろん、それは相手の剣をいなした時にちょっと技をかけて、それで相手がたおれ、その力が無になるようにします」
話はカンタンだが、これが合気の初伝の真ずいである。ただ、相手の打ちこんでくる剣を「かるくいなし」といったって、やり損じれば、切られてしまう。
相手に「きった」と思わせるくらいわずかにかわして、相手をそばに引きよせ、「タッ」という一瞬間にその手首を打つとか、ひねるかして、加わったその力で、相手がたおれ、ないしは自分の力を失ってしまう。
そういうふうに仕向けるには、こちらによほどの技の修練がなくてはならぬ。
若松町の道場では、一日に300人ぐらいが必死になって、そうした練習にはげんでいる。その中には女性もまじっている。
変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その3
悲願の岩間隠せい
修業のやり直しに専念
植芝翁やその他の人々が「岩間の奥ノ院」というのは、茨城県岩間町にある盛平翁の住居である。翁がここに千坪あまり原野を買って、その松林の中に、はじめ仮小屋のような家を建てたのは昭和15、16年であったが、そこへこもって修行のやり直しに専念したのは日本敗戦の年であった。
その時から「力にほこる者はほろぶ」「合気道は戈(ほこ)を止める道だ」「その道を完成しよう」との大悲願を立てて一心不乱の幾年となった。
したがって、岩間時代の初期には、翁は至って悲観的で、自分のそれまでの合気をほとんど否定し、新しい道を模索していた。
だから門弟の塩田剛三などがたまたま岩間を訪れて、「先生は高齢で衰弱し、隠居してしまった。合気道の二代目はオレだ」とばかり、都民銀行の工藤昭四郎や国策パルプの南喜市の後援で、新宿区築土町に養神館道場を建て、合気の元祖のような態度で多くの門弟をあつめた。
塩田は植芝子飼いの男で、道場長吉祥丸などと一緒に育った男だが、翁の真の精神を体得したとは言いがたい。
若松町の本部道場が吉祥丸や藤平光一の渾身の努力で、隆々と発展してくると、塩田のパトロンの南喜市が「本部道場と養神館を対等にしてくれ」「塩田に十段の段位をくれ」と申し入れてきたのに、「おう、おう、好きなようにさしたる。十段でも百段でもやる」と笑って答える翁であった。あとで翁は筆者に語った。
「合気は段位でも道場の格でもない。そないなもんとはおよそ無関係や。南はんはシロウトやさかいしょうがないが、塩田が、そないな世間のミエにこだわっていたかと思うと、かわいそうでならん。ハダカ一貫になってわしのところにかえり、もう一ぺん修業をやりなおしたらええのやけど、あきまへんかなあ」
しかし、岩間隠せいの(?)初期の翁を見あやまったのは塩田だけではない。静岡で大道場を開いている望月稔八段も同様であった。
それらの側近の高弟たちがそうであったのだから、森の中の小さな家に住みついた小柄なじいさんの正体を、村ではもちろん誰もが知らない。
ただ近くに住む国鉄職員の斎藤青年が、2,3人の仲間を連れ、翁のところへ、「合気をおしえてください」と、どこからか植芝盛平の名前を知って入門してきた。その頃は道場もないので、森の中でけいこした。
ある日、斎藤の仲間の一人が、村の無頼漢たちに襲われた。森の中の、へんなじいさんのところへ何やら習いに行っているというのが理由だ。
ところが、その一人が無頼漢5人をなげとばした。なげとばされたうちの一人が腕を折った。それから、大変なことになってきた。
変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その4
暴れ者が真人間に
道場で心身鍛える
無頼漢の4人を道場に連れて帰って、翁は懇々とさとした。
「おのれの力で相手に勝とうとすれば、たいてい相手にやられる。それはおまえらが味わったとおりや。それを村のヨタモンだけのことやと思ったらまちがいじゃ。日本が戦争に負けたんも、おのれの力で相手を征服しようという邪心のためじゃ。本当に勝つには、自分の力を正しく使わなければアカん。力を正しく使えばおまえらに切れない雑木の束が、67歳のじじいにでも切れる。
力の正しい使い方によっては、5人や7人、いや10人でも15人でも一ぺんにたおしてしまえる。それがきのう斎藤の使うた合気の手じゃ。
おのれの力を正しく使うということは、技(わざ)であると同時に心だ。心が正しくないと技は身につかん。
心を正しくするとは、第一に人と争わんことじゃ。だから合気ではこっちから仕掛けて行くということは決してしない」
そのとき、一人の男が言った。「それではまるで武術にならんのと違いますか」。「そうじゃ。いわゆる武芸、武術は、勝とう勝とうとして編み出されとる。武術の神ずいは敵を殺すのではのうて、敵をなくすことじゃ。相手の力を止めることじゃ。合気は敵の力をうばい、戈(ほこ)を止める術じゃ。だからもし敵がかかってこなければそれでええ。何もない。世の中は平和じゃ。そういう平和な世界となれば武術などいらん。一切の武術を廃止するために、どんな武術で攻めてきても、その力をうばい、刀をうばうのが合気じゃ。世界平和ということが合気の大目的じゃ」
それは終戦後、岩間にこもって、このごろ(昭和25、26年)やっと植芝盛平の心に芽生えてきた新しい武道、合気の目的、理想であった。
長い苦悩をへて、やっと開眼のよろこびを翁は語っているのであったが、相手が町内のヨタ者ではたよりないことおびただしい。
とにかく、この連中はそれから植芝翁に合気の入身、捌き、受身、片手取り回転、両手取り回転、連続回転などの技を教えてもらった。
しかし、そのため心を正しく持て、ということの実践として、水くみ、掃除、翁の肩もみなど、あらゆる雑用にコキ使われて心をきたえられた。
折れた腕のなおった兄貴分の男も入門してきて、あるとき翁の肩をもみつつ、“スキをねらって後ろから一ぺんひっくり返してやろうか”と、ふと思った。
「えーい!」翁の掛け声もろとも、その瞬間に、男は肩ごしに前方5メートルぐらいのところへ投げとばされた。恐れ入って、「どうして先生は、わしがそう考えたのがわかったんですか」「気じゃ。なんとなくわかる。肩をもむおまえの手が止まったのでナ・・・」
以来、かれらは「先生、先生」と翁に師事して、村でもアバレたりしなくなったので、「先生のおかげで町が静かになりました」と、警察の警部補が礼をいいにきた。
変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その5
生まれは未熟児
父の鍛錬で今日の翁に
しかし植芝盛平翁が岩間にこもったのは、村のヨタ者を教化するためなどではない。
合気道に新生面を与える大悲願のためであった。
そもそも植芝翁が合気道という武道を創始したのは、いつ、どこで、何のためであったか?
合気道は、天皇何十何代の何天皇の時に、何とやらのミコトが・・・といった由来を、塩田剛三の養神館道場で説き、あるところでの講演で工藤昭四郎がその通り喋っているのを聞いたことがあるが、およそデタラメである。
植芝翁が、そんな誤解を与えるような言い方を塩田にむかってしたことはあるが、弟子として、もっと正しく聞くべきであった。
合気は前人未発、全く植芝盛平の創始した武道である。
その神ずいは、身に寸鉄をおびずに、多数の敵をたおす、というのが創始当時の合気道であった。
みごとにそういう合気道をつくり出した植芝盛平は、大本の出口王仁三郎が、「植芝はんのような人は、百年に一ぺんしかあらわれん奇跡のお人や」という通り、日本武道史上にかつてない新しい武道を編み出した一大天才で、宮本武蔵などよりも、はるかに高い武道精神の顕現者といえよう。
筆者は、もうかれこれ20年、翁の側近にあって、その過去の経歴と、精神の固成過程をきき、翁の伝記を編もうとしているのだが、80歳を過ぎても翁の精神はすすみ、それにつれて技も発展するのをみて、目をみはっている。翁は「古武道」というものをアタマから否定する。
「古武道とは、武道のヌケガラだす。それを保存して何になる。真の武道は一日も停滞せず、変化し、発展する。合気でも、私はいままでに三千以上の技(わざ)をつくり出したけど、それは合気の発達の歴史みたいなもんで、大部分はヌケガラだす。だから道士が一つの技に執着し、停滞していると、どんどんおくれてしまう。日に新たに、また日に新たなり、の精神が肝心だす。」
この植芝盛平は、紀州田辺の生まれである。八か月で生まれて五、六百匁しかなく、父の手のひらに軽くのるような赤ん坊で、「この子は育たない」と、人に言われた。それを父が大事にして、「何としても、育ててみせる」と、がんばった。そのためにむやみにかわいがったというのではない。三歳ごろから、盛平のからだをきたえるために、海につけ、磯を走らせ、山伝いをさせ、10歳、12歳と長ずるにつれて、ありとあらゆる荒行(あらぎょう)をさせたのである。
盛平自身も、幸いにおとなしいけれど負けん気のコドモだったので、自己鍛錬にはげみ、その間の逸話は山のようにあるが、15、16歳になったころには、小柄だが骨の太い非常に力の青年となり、体重も20貫ちかくあった。それでいて、一日20里ずつ毎日山道をまるで飛ぶように走るのだから、目にも止まらず、
「アレ、また植芝の天狗がとおりよる」と町の人々にいわれたものだった。
変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その6
鬼軍曹もネをあげる
超人的な体躯の持ち主
徴兵適齢の満二十歳になった時の植芝は、超人的な体躯(く)を持っていた。
腕っぷしや足腰の強いのはふつうだが、頭が石より堅かった。人とけんかすると、頭でなぐる、ということをあえてした。植芝に「頭突き」をかまされたら、肋骨を折るとか、腕がはずれるとか、相手は大けがをした。
しかし植芝がわれから好んで暴力をふるうということはなかった。そのうち、かれは大阪の連隊に入営した。
岩上軍曹というのが新兵の教育係で、鬼の岩上というくらい、厳しい男であった。小柄なため、最下位に並んでいる植芝が、ひどく情弱な男に見えた。
「きさま、植芝か?」
「ハイ、植芝二等卒でございます」
「ございますとは何だ。やり直せ」
「やり直します。陸軍歩兵二等卒植芝盛平!」
「ウム、よし、一歩前へ!」
岩上軍曹は一歩前へ出た植芝の頭を、
「活を入れてやる」と力かぎりのげんこで、なぐった。その瞬間「痛ッ!」と、その手を思わず左でかかえた。
「きさまの頭は石か?」
「いえ、ただの頭であります」
「よし、もう一ぺん、気をつけッ!」
岩上は植芝を直立不動の姿勢にさせておいて前よりも力をこめてその頭をなぐった。
自分のこぶしが砕けたかと思うくらいの激痛であった。なぐられた植芝の方は微動もせず、そこに立っていた。
「おい、きさま、痛くなかったのか?」
「痛くありません」
「不思議な頭だな」
「ただの頭であります」
「どうして痛くないのだ」「どういうふうに鍛練したのか」
「一日に百ぺん、石の柱に頭突きをして、七年つづけました」
「フーム」これには岩上もおどろいて、「なぜ、そんなことをしたのか」
「ハイ、私はこのとおり、からだが小さいので、小さくても強くなり、お国のため役立ちたいと思って!」
「そうか、剣道はやったか」
「ハイ、柳生流免許皆伝であります」
「槍術は?」
「大島流免許皆伝であります」
「柔術は?」
「磯流五段です」
「水泳は?」
「軍曹どの、私は熊野灘に面した田辺の生まれで、小さい時から、わが家のふとんの中でねるほかは、海の中でくらした人間です」
「フーン、そうか、そのほかおまえのじょうずにやれるものは何か」
「肩もみであります」
意外な返事であった。が、その夜、下士官室へよばれた植芝は、岩上軍曹の肩をもみながら「軍曹どの、このつぎ私の頭をなぐる時は気をつけてください。軍曹どのの手が砕けますから」
変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その7
敵の砲弾をかわす
日露戦争も無傷で凱旋
日露戦争がはじまると、「この時」とばかり植芝は出征した。一年半ほど戦地にあって、タマ1つあたらなかった。というのも、大砲のとんでくるのが植芝には「よく見えた」からである。
「あぶない」とみてとると、砲弾が着地、爆発するまでに、植芝は一町ぐらい走って逃げた。
「実際、わしの走るのは大砲よりも早かった」と翁はいう。そして、こんなことがあった。何かの都合で植芝の部隊が大連守備中、二人の下士官が繁華街へ飲みに出かけた。
酔っぱらって戻ってくる下士官に、植芝は途中で会い、敬礼したが、それが相手には見えなかった。
「上官に敬礼しなかったら、どんなことになるか、わかっているか」
二人は軍曹と曹長であった。
目の前に植芝を立たせておいて、とびかかって頭をなぐった。倒れたのは二人の下士官であった。二人とも手をけがしていた。
「こら、きさま、上官をなぐったな」
「いえ、なぐったのは軍曹どのと、曹長どのであります。もし、おうたがいなら、もう一ぺんなぐってみてください」
二人の下士官は、改めて植芝をなぐろうとしたが、めいめい手の指の骨が折れていて、それどころではなかった。営舎に帰り、自分の中隊長にこのことを報告した。やがて植芝は二人の下士官とも軍法会議によび出された。
「なぐったのではない、なぐられたのだ」
という植芝の供述を証拠立てるため、もう一度なぐってみることを命ぜられたのは、植芝の所属中隊の岩上曹長であった。岩上はもう曹長に昇進していたが、法廷で植芝の顔を見るなり、
「この男の頭なら、なぐった方がけがをします」と、いきなり証言した。
以来、「石頭」が「鉄頭」という異名になった。
植芝盛平のこの様な逸話は一冊の本になるくらいはある。しかし、これが合気に直接があるとはいえない。
植芝が合気を開眼したのは明治42年、かれが北海道開拓に志し、55人の田辺近傍の同志とともに、北見の国白滝村に入植したころである。
白滝村(現・白滝町)の二股という村はずれの部落に定住した植芝は、55人のかしらとして開墾の先頭に立ち、立木を切り、巨石をたおすなどの怪力をふるったので、いつしか彼には「白滝王」という異名がついた。
白滝王の支配区域は、上湧別村の十里四方に及んだが、ある時、遠軽(えんがる)町まで用に出かけ、そこの久田旅館というのに泊まっている時、一人の強面の人相をした武芸家と出会い、「わしは武田惣角というものじゃ。おまえは見所がある。わしのあとつぎになれる。極意を教えてやるから弟子になれ」といわれて、霊感でもあったのか、植芝は直ちに入門して、武田を白滝のわが家に連れ帰った。
これが植芝の一生を決定した合気道開眼の機縁となったのである。
変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その8
武田惣角に師事、仕えて大東流を体得
帰郷直前に父が他界
武田惣角にめぐり会った植芝は、27歳の血気ざかりであった。
ところで、武田惣角の生まれ山梨県であって、武田家の末えいとも、遺臣とも自ら称したが、大東流という武芸の達人であった。
大東流は会津藩のお留技と言われ、明治になっても一般にひろまらないで、、代々一子相伝の秘儀として伝わっていた。武田は、その十何代目とか、これまた自ら称していた。
ずっとあとになって、東京で植芝門下の望月稔が師の道場を訪れ、ガラリと表戸をあけると、サッと木刀がひらめいて、
「何者だ」と、大かつ一声。
見ると、そこに立っているのは武田惣角と、あとでわかった。
「まるで、かたき持ちが、そのかたきに襲われたようなその時の顔を忘れられません。のみならず、入来者が植芝の弟子とわかってからの武田先生の態度が論外なのです」
武田はその時、放浪の旅路から東京にたどり着き、植芝の道場に立ち寄っていたのである。世は大正の御代だから、かたき討ちでもあるまいのに、入ってきた者をいきなり木刀で打ち下ろすというのも非常識である」
もし望月に合気の心得がなかったら、その時に大けがをさせられていたかもしれない。望月は鹿島神刀流三段、講道館柔道三段、合気三段(いずれも当時)であり、その時は「いきなり足の一本もへし折ってやろうと思いました」と。
しかし、この武田が自分の恩師の植芝盛平の使える師匠であって、植芝は武田からのどんな難題を言われても絶対に反抗しなかった、と聞いているので、
「わが師に見習って、がまんしました」と述べた。
事実、白滝村の植芝の家に滞在中は、武田の着るもの、ふとんの上げ下ろし、風呂たきなど、みんな自分の手でやって忠実に使えた。
植芝は、武田の世話をやく合い間合い間に、大東流の武術を教わった。大東流には剣術と体術の二つがあって、剣術は電光石火の居合抜き、切り返しのような鋭い技が主で、体術となると、逆手術が大部分であった。
植芝は数字の天分が豊かであったので、大東流の体術の逆手どりが、非常に数学上からも合理的なのをみてとった。それがのちに合気道となるのである。
武田惣角の大東流にめぐり会った植芝は
「これこそ真の武道ではあるまいか」と思った。天啓のごとく、そんな思いにいたった。
まもなく、大正7年、植芝の父危篤の知らせが来た。そのことが植芝に天の啓示となってひらめいた。
「先生、お別れいたします。私の家も、土地も一切先生に差し上げます」
武田の前に手をついて別れをつげ、身に一物も持たない裸一貫で、植芝は北海道を去った。
その帰国の汽車の中で、人からこういうことをいわれた。
「あんたのお父さんの病気は、医者でも治らん。それには丹波の綾部に出口という人がいる。その人にたよれば、あんたのお父さんもあんたも救われる」
植芝は、まっすぐ綾部におもむき、初めて出口王仁三郎に会い、父の病気平癒祈願をしてもらってから、田辺に帰ってくると、父植芝与六はもう他界してしまっていた。
五十嵐追記)
次号のコピーが欠落していますので、植芝盛平先生伝から下記を引用し、(その9)に続けていきますことをお断りいたします。
引用)帰郷途中の汽車内で宗教団体大本の実質的教祖であった出口王仁三郎の噂を聞き、与六平癒の祈祷を依頼するため京都府綾部に立ち寄り王仁三郎に邂逅、その人物に深く魅せられる。この間に与六死去(享年76)、物心両面の庇護者であった父を失い憔悴した盛平は1920年(大正9年)37歳、一家を率い綾部に移住、大本に入信する。
王仁三郎はこれを喜び、盛平を自らの近侍とし「武道を天職とせよ」と諭した。
盛平は王仁三郎の下で各種の霊法修行に努める。同年秋頃、王仁三郎の勧めで自宅に「植芝塾」道場を開設。
変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その9
「大東流合気術」が誕生
武田惣角の来訪を契機に
そんなことから、王仁三郎の言いつけで、植芝は道場をひらいて信者の中の希望者に大東流の柔術や、武田惣角以前に東京で修業して免許皆伝の免状をとった新影流の剣術などを教えた。
夜にはいると、王仁三郎がいつもよびにくるので、聖王とあがめられている王仁三郎の居室に行って、すぐそばに寝た。王仁三郎の身辺の警護のためであった。
その間に、植芝は王仁三郎から宗教的感化を非常に多く受け、武道一方の頭に、以来宗教的な物の考え方が加わった。といっても、やはり大本の教義そのままを信じたのではなく、王仁三郎の口からもれる片言隻語が植芝の独自の宗教心を刺激したのである。
二年もたつと、綾部の大東流道場には、四、五百人の門人が名を連ねた。植芝はその一人一人に手を取って教えるうち、大東流の技(わざ)から自分流のくふうをした新手をつぎつぎに試みた。
そこへ、ひょっこりと北海道からやってきたのは、武田惣角であった。それが大正11年の末か12年のはじめで、大正8年の第一次大本事件の後であった。そして、植芝の教えている道場へもやってきて、稽古ぶりをみていたが、
「大東流とずいぶん違うじゃないか」
と目に角立てて怒り出した。
「ハイ、私のくふうを加えたもので!」
「では大東流ということは許さん」
植芝もとうとうカンニン袋の緒が切れて、
「ではあす道場をたたんで国に帰り、百姓をします。先生もどうか北海道にお帰りください」
武田は植芝の雲行きが変わったので、
「それなら大東流合気術としたらどうじゃ」
というので合気道は「大東流合気術」という名で、この世に誕生した。原型になったのは大東流だが、
「起倒流も磯流も、また陰流の精神もはいっています」と、翁はいう。要するに翁の独創である。
変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その10
王仁三郎と蒙古へ脱出
パインタラで捕わる
大正12年の11月末、当時大阪で大正日日新聞という新聞を出して、そこの社長をもかねていた王仁三郎は、綾部に帰ってくる「植芝はん、あんたに災難がふりかかってきた。わてといっしょに逃げまひょ」と言い出した」
「仰せにしたがいます。しかし聖王はん、いったいどこへ逃げるのです」
「蒙古だす」
蒙古とは意外千万であった。しかもそれは王仁三郎側近の松村と名田という二人のほかは誰も知らない。植芝は王仁三郎護衛の金神さんとしてついて行く、かねて自分にふりかかっている災難からのがれる、という話である。
この時の出口王仁三郎の蒙古行きについては、たくさんな話があって、それほどカンタンなものではないが、それをすべてはしょっていうと、大正13年2月13日、王仁三郎は松村真澄とただ二人で、綾部を抜け出した。午前3時の綾部発の列車に乗ったので、だれも知らなかった。
その列車が亀岡につくと、植芝と名田の二人が待ち受けていた。一行4人の姿は、13日夜8時には下関にあらわれ、関釜連絡船「昌慶丸」に乗りこんだ。
翌14日朝、釜山上陸、奉天に直行、午後6時半には奉天平安通りの三也商会というのに落ち着いた。
王仁三郎は植芝に「あんたの災難を免れるために逃げましょう」といって奉天まで来てしまったのだが、彼は大阪で近く大本に第二次検挙の手がくだるとの情報を入手して、国外へ逃亡したのであった。
しかし「国外逃亡」とよぶのは新聞記者的見方で、王仁三郎の大目的は「諸宗を統一して世界大宗教を打ち出せ」「その聖地は蒙古である」との神示をこうむって出てきたのだ、と松村に語っており、松村はそのための相談役であった。
もう一つ言えば、日本の政府が大本を不敬罪だの治安維持法だので弾圧して禁止してしまおうとするならば、大本の本部を蒙古に移して、世界人類の救済にのり出し、もって日本政府のハナをあかしてやろうとの抵抗心が王仁三郎にあっての行動であったように思う。
それはともかく、奉天に着くなり、王仁三郎は東三省陸軍中将盧占魁という元馬賊の頭目で、その時は張作霖の客分となっている将軍に会見し、両者意気投合して、蒙古独立をはかることになった。
蒙古国ができたら、大本ラマ教と名乗って、蒙古一円に大本の教義をひろめようということになった。
3月3日、王仁三郎一行は奉天を出発して、自動車で開原着、そのまま昌図まで行って、そこで一泊。
3月8日にはトウ南着。
26日には王爺廟着。さらに公爺府に進み、後から200人の手兵を連れてやってきた盧占魁とともに、独立の旗上げをする画策中、状況が変わってきて王仁三郎はパインタラで張作霖の出先の軍に捕えられ、通遼の牢屋になげこまれてしまった。
「結局、出口王仁三郎先生とともに地獄いきじゃ」植芝もともに牢屋に入れられ、最後の覚悟をした。王仁三郎も植芝も手カセ、足カセをはめられて、死刑囚の扱いであった。
変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その11
大将も投げとばす
大東流を捨て独特の武術
「出口先生とともに地獄行きじゃ」
と、植芝が覚悟したとおり、通遼監獄の中は文字どおりの地獄であった。
食事といえば一日一食、犬の食うようなきたないお椀に、高粱飯を盛り、ノドのひきつれるような味噌汁が一杯。それを食べるのに、手カセをはずしてくれはしない。足にもカセがはまっているので、うつ伏せにころがって、ようやくお椀の中の高粱飯を一口、それを何十回もかんで、辛うじてのみこむと、次には味噌汁のお椀のふちに口をつけ、、そのふちを唇で傾けて一口のむ。
牢屋に入れられるとき、荷物はもちろん、身につけたものは全部はぎとられて、王仁三郎も植芝も、ふんどし一つの丸裸である。
便意を訴えると、入口の戸をあけて外へ出したが、剣つき鉄砲を後ろから突きつけて衛兵がついてくる。だから用便をすましても、尻をふくことも手を洗うこともできない。
一週間もすると、王仁三郎一行の捕らわれていることが日本側に知れたらしく、おいしい弁当や着物が差し入れられたらしいが、衛兵が横取りしていうのである。
「どうせおまえらは、明日にも銃殺されるのだから、持ち物や着物はあらかじめ俺たちがもらっておいた。弁当も少し分けてやろう」
自分の弁当を泥棒衛兵からおすそ分けしてもらうのである。こうした地獄の牢獄生活は、丸十日つづいた。
十日目に王仁三郎も植芝も牢屋から引き出されて、手カセははずされたが、足カセのまま営庭のような場所に並べられた。
「いよいよ銃殺だ」
植芝もここで自分の一生が終わるのかと覚悟して目をつぶった。
ところがそれは、支那側でめいめいの写真をとるためであった。
7月5日、一行は無事に鄭家屯の日本領事館に引き渡された。この事件は王仁三郎一行の蒙古独立の挙兵計画というのが支那官憲ににらまれたためであった。
植芝が王仁三郎をまもって日本に帰ってきたのは、7月25日である。
しばらく大阪にとどまって、大阪府警察本部の求めに応じ、大東流合気術をおしえたりしていたが、大正14、15年ごろは全国を武者修行をして歩いた。
大正15年、植芝の合気術は、竹下勇海軍大将に知られ、その援助で東京にきて道場をひらき、大東流を除いて「合気術道場」の看板を出した。
そこでは大東流をすてて植芝独創の剣術、槍術をも教えたが、ある日に山本権兵衛元帥がやってきて、槍術の試合を見た。
植芝の電光石火の槍法は、大島流や宝蔵院流の比ではなかった。すっかり感服した山本は「わしが後援者になるからおおいにやりなさい」
と、芝白金猿町の島津邸内の一戸を借りてくれ、そこに移って道場をひらいたのが昭和2年。
ここへ竹下大将、山本(英輔)大将、下条海軍中佐、香下慶大教授などが習いにきたが、みな一回の練習に何十回か投げられた。下条中佐などは、道場片すみのイスに腰をかけていて、竹刀で頭をぶんなぐられた。
山本権兵衛元帥は老齢であったが、孫にあたる令嬢を入門させて植芝武術を学ばせた。
そのころから、合気術といって無手の武術を教えはじめたが、まだ合気道とはいわなかった。
変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その12
アメリカにも普及
高弟・藤平九段が中心に
竹下大将や山本元帥の関係で、植芝道場へは海軍の少壮将校がたくさん入門してきた。
その軍人たちは、政党政治の腐敗を難じて、皇道政治を振起しなければならぬという気風がみなぎっていた。
高橋三吉大将、百武、蓮沼両大将のほか、西園寺八郎、鮫島恭子などの名も門人長に残っている。
昭和5年、嘉納治五郎がたずねてきて、「自分は江戸時代の体術を柔道に創案して大衆に普及したが、これは武術をスポーツ化したもので、一方において武術そのものの保存発展が不可欠と考える。合気をみると、これこそ真の武道とわかった。ついては講道館の前途有望の者を両三名預けるから、合気道を仕込んでくださらぬか」というので、講道館からやってきて入門したのが望月稔ほか2名(永岡、武田)で、あとから富木謙治もきた。
昭和7年、現在の若松町に移り、はじめて「合気道本部道場」と名乗り、30人ぐらいの内弟子を置いた。その中に、戦後、合気道養神会道場をひらいた塩田剛三もいた。
塩田を十段と前に書いたのはまちがいで、現在九段である。(本部道場の主任師範藤平光一も九段)
また塩田が養神会道場をひらくまでに「俺こそ合気道二代目だ」と名乗ったことなどは決してない、と本人からの申し入れなので、筆者のまちがいとして訂正しておく。
塩田は戦後、植芝翁が岩間に引きこもって、合気道の将来の新使命探索に没頭しているころ、東京で合気道をひろめ、工藤昭四郎や南喜一のような有力な後援者を組織したので、中興の功労者といえる。けっして養神流とでもいう別派をつくったのではない。
塩田の合気は、植芝直伝の正統合気だが、翁にいわせると
「まだまだ修練が足らん。年とともに進みゆく最近の合気の技をもっと身につけることが必要である」との評である。
ついでに他の高弟にふれると、八段富木謙治は合気を以て早大教授となり早大の学生に合気を教えているが、
「自分のは合気をとり入れた柔道だ」ともいっているようだ。安井早大体育局長は筆者と長年の友人だが、
「なにぶん大学生に教えるのだから、理論的に説明できる範囲の合気のようだが、大学当局としては、まあそれでもいいと思っている」との意見である。
合気道のもっとも本道を行っているのは、嗣子吉祥丸は二代目道主に指名されている人だからいうまでもないが、主任師範の九段藤平光一が第一の立役者である。
彼は栃木県の名門の子だが、早くから植芝翁の門にはいり、五段でハワイにわたり、同地で道場をひらいて数千人のハワイ人に合気をひろめ、ハワイ群島内に数多くの支部を作った功労者である。
ハワイからアメリカ本土にも合気をひろめたが、二年前(昭和36年・1961)には道主盛平翁をハワイに案内して同地の多くの門弟に道主の元気で猛烈な演武を見せて、非常な感激を与えた。
変わりダネ日本人
「植芝盛平」 - その13
合気道は“大和の精神”
人を愛する根性の錬磨
合気道なり、植芝盛平のすべてを語ろうとすれば、ぼう大な一冊の本ができるだろう。
筆者は、その伝記を編さん中だが、植芝翁のことを一言にして評すれば「奇跡の人」ということに尽きる。
特に筆者が翁と知りあった戦後の岩間沈潜時代に、翁は合気道についてこういわれた。
「この宇宙は闘争の世界でなく、和の世界である。それなのに人類が互いにせめぎ合って流血をこととしているのは、今だ和の大精神が発現していないからである。この植芝は、その大和(だいわ)の理想を地上に発現させる使命をおび、合気という武技をその道具として生まれてきた人間である。私は神の使命によってこの道を行うものである」
またこうもいわれた。「合気道は、この大和の精神をきたえる方便で、技(わざ)だけにとらわれるのは邪道である。また大和の精神を堅持すれば、技はおのずから進む」
そして翁のいう和の精神とは「人と争わない魂」「人を容(い)れ、人を愛することのできる根性」であり、いたずらに人に勝とう、人をくじこうという闘争心にわき立つ相手には、その相手の力を利用してたおしてみせ、「お前のそのみじめな敗北の姿は、おまえ自身の力がつくり出した結果だ」とおしえてやる。
したがって、あらゆる流儀の武芸家の技をも克服できる技を合気道では工夫し、それが三千手をこえたが、実際に用いられているのは、三百手ぐらい、日常的には三、四十手で足りる。その技はすべて受け身の技であった、合気ではこちらからいどんでゆく手はない。
「それでは試合にも決戦にもならんではありませんか」
うっかり聞いた時、翁は言った。
「もし、こんど人類が試合(戦争)をし、決戦したら、地上の人類は滅んでしまいますよ。今は原爆の時代ですからネ。決戦にならないよう、合気は敵に仕掛けていきません。しかし敵の四十八手は、今いう敵自身の力を返上する技でたおします。だから敵は一人相撲を取って一人で倒れるようなものです。合気には敵というものはありません。相手がかかってこなければ、それこそけっこう、それこそ和の世界です。そうありたいものです」
世界平和七人委員の下中弥三郎が、植芝翁のこの思想を非常に珍重し、翁の道話を聞く会を毎月大田区の自邸でひらいたのは語り草である。
翁は岩間で3年沈潜して、このような合気道をひらいた。はじめ小さな祠(ほこら)をたてて、スサノオノ命をまつり「合気神社」と名づけたのも、二代、三代と、翁の説く大和の精神のよりどころとするためである。(最近、合気神社は立派に建てかえられた)
この合気神社のある岩間を合気道の奥の院と称し、本部を東京都新宿区若松町におき、多くの有志の協力で、道場の新築がはじめられている。元来、闘争の具であった武術を、このような平和世界実現の理想に切りかえ、それが単なる形而(じ)上の言葉だけでなく、形のある武技であらわされるというのは、世界にも類のないものということができよう。
(おわり)
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