目 次
 四段受験課題 「合気道ロスト・イン・トランスレーション/合気道は翻訳で失われた」 橋本道場 ピオトール・ヤノヴィアック
 四段受験課題 「合気道の極意とは」 橋本道場 吉沢 照夫
 参段受験課題 「指導者の心得」 橋本道場 加藤 裕明
 四段受験課題 「合気道の極意とは」 橋本道場 森田 啓資
 四段受験課題 「合気道の極意とは」 橋本道場 土井 瑛祐
 参段受験課題 「指導者の心得」 橋本道場 栗原 大樹
 弐段受験課題 「合気道の稽古で得たもの」 橋本道場(優和会) 尾藤 一則
 初段受験課題 「黒帯・袴/有段者の心得」 橋本道場(優和会) 中村 保雄
 参段受験課題 「指導者の心得」 橋本道場 小川 博之
 四段受験課題 「合気道の極意とは」 合氣道漸進会 稲田 靖幸
 初段受験課題 「感想文 (黒帯・袴/有段者の心得)」 橋本道場 ヤノビィアック ヤン
 参段受験課題 「指導者の心得」 橋本道場 足立 幸夫
 参段受験課題 「指導者の心得」 橋本道場 鈴木 康二朗
 四段審査課題 「合氣道の極意とは」 八王子道場 立松 祐樹
 参段受験課題 「指導者の心得」 橋本道場 吉沢 照夫
 四段審査課題 「合気道の極意とは」 橋本道場 輿石 徹
 四段審査課題 「合気道の極意とは」 橋本道場 村上 俊幸
 参段審査課題 「指導者の心得」 橋本道場 佐々木 奨
 参段審査課題 「指導者の心得」 八王子道場 吉田 隼人
 弐段審査課題 「合気道の稽古で得たこと」 合氣道漸進会 前田 薫
 弐段審査課題 「合気道の稽古で得たこと」 橋本道場  田中 仁
 参段審査課題 「合気道の稽古で得たこと」 橋本道場 森田 啓資
 弐段審査課題 「合気道の稽古から得たこと」 橋本道場 村上 博之
 弐段審査課題 「合気道の稽古で得たもの」

橋本道場  矢吹 奨一

 

令和6年3月/四段受験課題

「合気道ロスト・イン・トランスレーション/合気道は翻訳で失われた」

 橋本道場 

ピオトール・ヤノヴィアック

 合気道は美しい武道だと、よく言われます。人は合気道をダンスに例えることがあります。ダンスでは2人のパートナーがハーモニーを奏で、振付師によって振付けられた一連の動きを踊ります。

 私は、合気道の調和が正しく解釈されていない例だと思います。合気道の美しさは、ダンスやバレエというよりも、詩の美しさに例えられると思います。合気道をダンスやバレエと比較するのは、動きや回転、時間と空間の同期から来るものだと理解しています。しかし、この比較は合気道にとって何の説明にもならないどころか、害悪でしかありません。それなら、合気道を非効率的な武道だと考える人がいても不思議ではないと思います(決まったルーティンをリハーサル通りに踊るパートナーしかいないのだから)。

 以下では、合気道をダンスやバレエに例えるよりも、詩に例える方がはるかに真実に近い理由を説明しようと思います。

 誤解を避けるために、まず「合気道は翻訳で失われた」という言葉の意味を説明しなければなりません。もちろん、最初に思い浮かぶのは日本語から他の言語、たとえば英語への翻訳です。しかし、それはまったく問題ではありません。そんな問題だけなら、日本で日本人の先生から合気道の稽古を受けている日本人は皆、合気道を完璧に知っているはずです。日本で合気道の稽古をしている人なら、日本人の先生から受けた説明を理解できない日本人がいかに多いかに気づいているはずです。つまり、合気道を十分に理解することを難しくしているのは、日本語という言語ではないのです。

 合気道開祖植芝盛平翁先生は、1883年12月14日に生まれました。日本では、他のどの国でもそうであったように、当時の人々は異なる言葉を話していました。日本語とはいえ、現代の日本語とは異なる言語でした。植芝盛平先生は偉大な武道家であり、教育家でありました。他の才能ある芸術家や偉大な詩人と同じように、盛平先生も世界を描写し、自分の考えを表現するための独自のスタイルと言葉を持っていました。また、翁先生が精神的な人間であったことは、翁先生の武術や使用する言葉にも反映されていました。

 有名な詩人の文体が人生のさまざまな段階で変化するように、翁先生が創り上げた合気道も人生のさまざまな段階で変化しました。すべての偉大な芸術家、詩人や画家には弟子や信奉者がいて、彼らが偉大な芸術家の人生のどの時期に関係していたかによって彼らはその偉大な芸術家の、その時とは少し違ったスタイルを継続し発展させていきました。合気道開祖植芝盛平先生のような偉大な武道家も同じであったと思います。

 合気道の創始者植芝盛平先生の後、二代目道主植芝吉祥丸先生、三代目道主植芝守央先生がいらっしゃいます。また現道主のご子息の植芝充央本部道場長(現在は若先生)が後継者であることも忘れてはなりません。合気道の発展と普及を担う植芝家の四代目です。合気道のスタイルにかかわらず、私たちは常にそのルーツと根底にあるもの、すなわち武道を忘れてはいけません。

 武道は、師匠や指導者の真似をし、その動きを繰り返し・繰り返し稽古をすることで身についていきます。武道における師匠も弟子も人間であり、人間同士のコミュニケーションの最良の形は言語と言葉といえます。師範・先生は言葉を使って生徒を正し、説明します。詩人が自分の考えを言葉、文章、フレーズを通して読者に伝えるように、武道の師範は、原理や技法を弟子に説明します。詩の場合、異なる解釈があるかもしれないし、詩が異なる言語に翻訳されるかもしれない。同じ詩を異なる翻訳者が翻訳するたびに、それぞれの言語におけるその詩の音(スタイル)と解釈に違いが生じるかもしれません。合気道でも同じことが起こります。翁先生は偉大な芸術家(偉大な詩人)であり、その詩(合気道)を現代語に翻訳するのが、後の師範たちです。合気道の師範(先生)は翻訳家のようなものと言えます。忠実に訳す人もいれば、美しく訳す人もいます。

 詩の場合、読み手がその詩を解釈するように、合気道の場合、各生徒は先生の言葉を自分の内的言語に翻訳しなければなりません。何かをうまく翻訳するには、まずそれをよく理解し、両方の言語に堪能でなければなりません。これが最大の問題である。良い合気道の先生は、良い翻訳者であり、与えられた詩(合気道)を理解するだけでなく、それを上手に演じる(与えられた合気道の技を正しくはっきりと人に見せる)良い役者でなければなりません。だから合気道では、良い先生によって決まることが多いと言えます。良い先生を見つけ、選ぶことは、合気道初心者にとって最も難しい課題です。その先生が合気道の技を上手にこなすかどうか(演技が上手かどうか)だけでなく、先生の説明を自分の内的言語に翻訳できるかどうか(正しく解釈できるかどうか)も重要と言えます。

 私は自分にとって最高の合気道の先生、五十嵐和男先生を見つけたと思っています。私は技術者として、先生の説明を解釈するとき、先生の言葉を私にとって理解しやすいバイオメカニズムの言語に翻訳するようにしています。

 以下は、五十嵐先生が演じられた(そして説明された)合気道の詩のごく一部についての私の解釈です。私の解釈は唯一可能なものではないですし、さらに言えば全ての人にとって正しいものである必要もありません。これは合気道の核心である「武道」に到達し、理解しようとする私の試みに過ぎません。

 合気道で一番難しいのは、どの筋肉をメインに使うか(動きの核心と意味は何か)と正しいタイミングを見つけることです。

  五十嵐先生はよく動きを円で説明します。円運動だけではなく、円はアクションゾーンを象徴しています。「最初の円」は誤った作用力を説明するのに使われます。これは内側の円です。例えば、伸筋(上腕三頭筋)の代わりに屈筋(上腕二頭筋)を使う、さらに手を伸ばしたり突き出したりするのではなく、押し出したりしてしまいます。

 2つ目の外側の円は、筋肉を正しく使っている場合です。1つ目の正しくない円の場合は、私たちは手(実際には前腕のみ)をコントロールするだけです。つまり、事実上コントロールできていません。私 (取り)と 相手 (受け)の身体の上部 (腕と肩) の部分的な制御だけとなります。2番目のサークルを説明します。

 最初の円と2番目の円の違いは、正しい動きの軌道 (正しい筋肉の使用 - 外側のゾーン) に関するが、2番目以降の円との違いは、コントロール ゾーン (と動きの範囲) の拡張に関係します。第三の円の場合、相手(受け)に対するコントロールは、ヒップのレベルにまで拡張します。四番目の円は、膝まで拡張コントロールのレベルであり、五番目の円は、足 (すなわち、我々全体の体を制御している)。四の円と五の円の違いは非常に微妙であり、しばしばこの2つのゾーンが1つに統合されることがある(例えば、四方投げの時)。 

 武道は常に相手の中心線(受け)をコントロールすることにあります。円 (異なるゾーン) のアイデアを示しています。接点を介して、我々 (取り) 相手の体全体 (頭から爪先まで) を制御するまで、コントロールの範囲を拡大する必要があります。詩の言葉を使えば、この制御は最終的に宇宙に及ぶと言うことができ、実際、制御は調和に変換されます - 周囲の世界との調和。これが合気道の詩の美しさである。第四と第五の円(脚部)のコントロール(調和)が欠けていると、相手(受け)に蹴られる可能性がある。最初の円 (手-前腕のみを制御) のレベルでのみ技を実行すると、ほとんど常に相手 (取) 我々 (受け) を他の手で打撃される可能性を持っています。

 ここでは、合気道の詩の翻訳で最も一般的な間違いに至る - ハーモニー (愛)。稽古相手 (受け) の役割を果たしているパートナーは、相手の取りの動きを助けるように同期するように調和を誤解します。これは、受け自身が、取りからの協力なしに、学習した動きを実行することを意味します。それ故に合気道は、振付師が各当事者に行う動きを割り当てているダンスのように見えます。そして、受けと取りの両方が、それらの間に何のつながりもなく、何のコントロールもなく、つまり実際には、調和することなく、自分の役割を果たす。このように、合気道における「和」の解釈を誤ると、完全に「和」を欠いてしまうことになります。

 ユーチューブを見ていますと、「合気道」(というより合気道の詩の非常にいい加減な翻訳)と技を紹介するビデオに出くわすことがありますが、その技は通常1メートルから3メートルの距離で、接触することなく行われています。

 合気道の動きは複雑で、多くの面や球体で行われ、さまざまな筋肉群が関与しているため、合気道を教えるのは非常に難しいと言えます。さらに、この動きは適切な距離と時間で行われなければならない。この動きを詳しく説明することに意味はありません。身体部位の動きを説明するには、外転、内転、回内、陥没、背屈、挙上、外転、伸展、屈曲、倒立、側屈、対位、足底屈、前屈、伸展、再位、後退、回旋上転など、あまりにも多くの言葉を使う必要があります。

 これらの運動用語を知っているのは医学生と理学療法士だけといえます。そのため合気道では、ある動作や状態を表す比喩や言葉を詩として用いることが多い。合気道の詩が美しくあるためには、優れた翻訳者(先生)がそれを翻訳しなければならない。その時、合気道は理解できるようになります。つまり、誰もが優れた役者になり、特定の詩(合気道の技)を上手に演じる(宣言する)ことができるようになるわけではありません。

 しかし、これが合気道とその詩の美しさであります。それぞれの詩は何度も読まれることで、異なる感情や異なる解釈を呼び起こすことができます。同様に、合気道の技を繰り返し行うごとに、少しずつ違った意味を読み取り、少しずつ違った解釈をし、より深く知ることができる。だから合気道は、詩を読むように、毎回

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四段受験課題

「合気道の極意とは」

 橋本道場 

吉沢 照夫 

 今年78歳になりました。健康維持のため楽しく日々稽古を続けています。大学の部活で合気道を初めてから、卒業後しばらく中断しましたが、10年前に五十嵐道場に入門させていただき稽古を再開しました。                                  

 課題の「合気道の極意とは」は難しい課題なので、なかなか筆が進みませんでしたが、日々の稽古で五十嵐先生から御指導していただいている内容を自分なりに考えを整理してみました。

 

精神面と肉体面の観点で見ると

・精神面では合気道の柱となる「和合の精神」

・肉体面では原理に基づいた「身体の捌き」

この心と体の奥義を実現する為に心がけることは

「和合の精神」では、相手を敬愛する心で「固執せず、居つかず」

「身体の捌き」では、「力に頼らず、ぶつからない円軌道で誘導する」

これらを習得するため、日々の稽古で繰り返し粘り強く鍛錬をしています。

 

 しかし現在、やればやるほど奥の深さを感じています。

 先生に指導されたことをどのようにしたら自分で出来るようになるのか、自分で試行錯誤しながら考えることが多々あります。これも稽古の楽しみでもあります。

 後期高齢者になった現在、若い時のように体が動きませんが、年相応の動きで長く続けられることが、合気道のよいところでもあります。                          

 これが老若男女に受け入れられ、国際的に多くの人に愛好されているゆえんです。

 現在私は若い人達に交じって合気道を末永く楽しんで行こうと思っています。

 これからも皆様のご指導をよろしくお願い申し上げます。   

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参段受験課題

「指導者の心得」

 橋本道場 

加藤 裕明 

 五十嵐先生、また会員の皆様、いつもご指導ありがとうございます。

 さて、私が合気道の指導者になるまでの道のりは、まだまだ遠いと思っておりますが、この度、昇段審査にあたり、指導者の心得について、五十嵐先生のご指導から感じたことをもとにしながら、自分なりに考えてみたいと思います。

1.安全第一

会員が安全に怪我なく稽古を続けられるよう、準備運動、安全な受け身の取り方、技の掛け方など安全な稽古方法を指導すること。

2.正しい所作を指導すること

合気道の技と一緒に、礼儀作法や武器の取り扱い方なども指導すること。ひとつひとつの所作の意味を知ると、伝統の重み、深さを感じ、日本文化への愛着も深まります。

3.コツを言語化する

技を見ただけでは分かりにくい、体の使い方、立つ位置、向く方向、間合いなどをわかりやすく言語化する。伝えにくいことは、ドアの蝶番や、ギアの模型などを使って説明するなど工夫すると、わかりやすくなる。

4.明るく楽しく

先生がいつも明るく楽しく指導してくださる道場で、楽しく体を動かすと、清々しい気持ちで、毎日を元気に過ごすことができます。

5.よく眠る

いつも明るく楽しく指導するには、睡眠もとても重要ではないでしょうか。脳科学的にも、充分に睡眠がとれていると、脳がすっきりして、いつも機嫌よく振る舞うことができるそうです。

6.会員ひとりひとりを応援する

会員ひとりひとりが、どのような目的を持って通っているのかを知り、また、ひとりひとりの課題を見極め、目標を持たせ、楽しみながら成長できるよう、応援する。

 

 以上、日頃の稽古を振り返り、五十嵐先生のご指導から感じたことを中心に、指導者の心得というものについて自分なりに考えてみたことです。もちろん、「分かっている」つもりは毛頭ございません。あらためて、自分の未熟さ、これからの道のりの遠さを確認できました。ここから一歩ずつ、精進してまいります。

 これからも五十嵐先生からご指導をいただけることが、とても幸せです。今後とも宜しくお願いいたします。

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四段受験課題

「合気道の極意とは」

 橋本道場 

森田 啓資 

 私が現段階で考える合気道の極意は、「勝負」の世界に引きずり込まれないことです。元来、武術は生殺与奪の技術ですが、武術から武道に発展した現代においてその技術を学ぶことは自己修練の道であり、その中でも合気道は老若男女問わず、他者を活かすという特徴を持っています。

  合気道は相互に技を掛け合い稽古をする事ができますが、対峙する相手を抑えつけようとか、投げてやろうとか、そうした勝ち気が出てしまうと、それが力みになり、その力みが相手に伝わり、技の精度が落ちてしまいます。また剣・杖の稽古においてもそうした勝ち気で対峙すると、粗さが出て隙が生まれてしまいます。 

 また、負けないようにとか、やられないようにとか、そうした消極的な気持ちが出てしまうと、どうしても技が小さくなってしまい、同じく余計な力みが生まれ、相手に反発されてしまいます。 

 合気道は極めて合理的な身体操作を実現する事を基礎に置き、その基礎の上に、自分自身の特徴、対峙する相手の特徴を捉えて、臨機応変に技を出す事を理想とします。それは技をかける取りの者だけでなく、受けをとる者も同様に相手の技に臨機応変に対応し合理的な動作で対応する事で、相手の力量を見極めたり、技の性質を盗む事ができるようになります。 

 翁先生が「宇宙と一体」というお言葉を残されていることや、小林先生が「考えるな」と指導されていること、また武人の先達が究極の状態は「無心」と記している事などは、「勝ち負け」や「強い弱い」といった次元を超えて、自然体を保つことの大事さを説いてるいるのではないかと解釈します。また普段の稽古において、円、歯車、丁番、丹田、呼吸など、これらの言葉を意識する事は無理の無い合理的な身体操作、自然体を練り上げていく為のヒントになる重要な要素であり、同時に相手にとっても無理が伝わらずいつの間にか誘導されている状態、他者を壊さず他者を活かす為の稽古になるのではないかと思います。 

 ただし、この自然体を練り上げていく事こそが最も難しいことであり、多少無理を重ねた稽古を通してでないと会得できないのではないかという矛盾も感じておりますが、そこに「勝ち負け」「強い弱い」という要素、感情を持ちこんでしまうと、余計な力み、不自然な動作となってしまい、他者を活かすどころか、自滅する事になってしまいます。合気道の稽古はそうした不自然さ、力みをそぎ落としていく作業の積み重ねであり、その自身の練度の高まりに比例して相手を活かす事にも繋がっていくように思います。 

 今後、稽古を積み重ねていく事によって、自身が感じる合気道の極意は変化していくものと思いますが、その時々で感じる事を大切にし、心技体を練り上げていきたいと思います。また自身のみならず、他者も相乗して技術が向上していく、即ち他者も活かす事ができる合気道を目指して、今後も稽古に精進していく所存です。

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四段受験課題

「合気道の極意とは」

 橋本道場 

土井 瑛祐 

 大学生から合気道の稽古を始めて約18年経ちました。まだまだ未熟だと思いますが「合気道の極意」は「自分と相手の理解」なのではないかと最近考えています。 

 しかし、これもここ数年の考えであり、稽古を続けていく中で考え方は常に変わりました。合気道を始めて数年は型を覚えることが重要なのだと考えていました。これは、そもそも型について表面的なことしか分かっていないのに理解したつもりになっていたということもあるのですが、型通りにやれば、そのまま相手を動かすことが出来るのだろうと単純に考えていたためです。ただ、実際は相手を動かすことが全く出来ないことも多く、先輩方や指導して頂いている先生方の様になるには、どうすれば良いのだろうとずっと考えていました。 

 その後、五十嵐道場に入り稽古を続けていく中で、今までは単に型の表面的な部分をなぞろうとしていだけであり、本当は自分の体の各パーツの動きを理解し、自然な動きかつ効率的に体のパーツを使うことが重要なのではないかと考える様になりました。これによって多少相手を動かせることも増えたと思いますが、基本的に力づくで無理やり動かすことしか出来ず、自然な形で相手を動かすことはまだまだ困難でありました。 

 他にも、合気道やその他武道の参考書を購入し、自分なりに学習もしてみました。 参考になる様な点もいくつか見つかり、稽古で試してみて多少成果は有りましたが、まだ力づくに頼っている状態でした。 

 そのため、ここ数年は先述した内容に加え、相手の体と感覚の理解が必要なのではないかと考える様になりました。自分の体の各パーツを動かした際に相手の体の各パーツのどこにどう影響し相手がどう感じるのかまで考えることにより、自分の感覚の範囲を自分と相手まで広げる必要が有るのではないかと考える様になりました。 

 ただ、実際は全く出来ておらず相変わらず独りよがりな動きになってしまっているので、これも何かが不足しているか、そもそも考えている方向性を間違っているのだと思います。 

 色々と記載しましたが、結局は稽古を続けてこれからも「合気道の極意」を探し続けるしかないと考えています。稽古の中で自分で気づけることや、一緒に稽古をする人達および先生方から教えて頂く事も多々ありますので、一番重要なことは稽古を続けることだと思います。 

 ただ、社会人になり仕事をしながら稽古を続けている中で、いつも思うのは時間が足りないということです。仕事や資格の勉強など、どうしても必要な時間が有る一方で、稽古の時間は自分にとって必要不可欠な時間であることから、バランスを取るのにいつも困っています。 

 そのため、これからの個人的な課題は、いかに一度の稽古の密度を高め、長く稽古を続けることだと考えています。

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参段受験課題

「指導者の心得」

 橋本道場 

栗原 大樹 

 私の合気道歴は大きく分けて3つに分けられます。小学5年生から社会人になるまでの約14年間をお世話になった秦野武産合気会、大学4年間の東京農業大学光輪洞合気道、そして現在の橋本道場です。各道場の指導者から様々な教えを頂いてきました。

  今までの経験から、このテーマにおける考えとして、①許容する心、②探求心、 ③合気道を楽しむ、といった3つが重要かと感じています。

 ① 許容する心
 合気道は他のスポーツや武道と異なり、幅広い年代で男女一緒に稽古を行うものです。そこには学生や社会人、既に第一線から退いた人もおります。人によっては健康のためであり、新しい事への挑戦であり、合気道をもっと学びたいなど様々な目的で道場へ行きます。この多様性の中で自分はこうだったといった、主観的な見方で相手を見てしまうと軋轢がうまれ同じ考え方の人だけが楽しい道場になってしまいます。様々な立場・目的の中で合気道を学びたいと思ってくれた人には、できるだけ広い心持ちで接し、楽しく・長く稽古に励んで頂きたく思います。 

② 探求心
 未熟ながらも地元の道場や大学では、指導をする側にたつ機会もありました。経験した中で、教える側にも学ぶことが沢山ある事に気付かされました。技の説明の際に改めて言語化してみると上手く言葉にできず、感覚で行っていることが多々あることに痛感させられます。これらの気付きと反省から、より良くするために日々精進していくことで、日々の稽古の質が上がっていくのではないかと思います。 

③ 合気道を楽しむ
 教える側の人間が楽しそうに稽古していないと、教わる側も楽しくないと思いま す。これは最初に挙げた3つの道場、全てに当てはまりますが、指導者は皆様楽しそうに稽古をしています。そこには笑いや笑顔といったものがない日もあるかもしれませんが、合気道が楽しいという事が伝わってきます。指導者が道場の空気を作り出しているので、指導者自身が合気道を楽しまなければ、人は付いて来ないのではと思います。

 私は指導者として、技術的にも上記3つの心得も足りておりません。稽古へのスタンスは同年代であれば自分と同様の考えを求めてしまいますし、仕事で疲れた日には稽古に行くことだけで満足しており、次の日には「昨日何やったかな?」なんて日もあります。今回、文章化する事で今後の稽古において技術以外にも精神的に向上する必要がある事を改めて痛感させられる機会でした。今後も日々精進し、稽古に励みたいと思います。  

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弐段受験課題

「合気道の稽古で得たもの」

 橋本道場(優和会)

尾藤 一則 

 合氣道を始めて7年。構えた時に身体に力を入れない、力を抜くことの大切なことが少しだけわかって来たような気がします。少しでも力が入ると技への集中力が途切れます。集中力を保つための方法は術の方法論を常に考え続けることです。ただし、まだ技も術も修行中のために闇の中です。もう少し具体性を持たせるために五十嵐先生のギア論_ボルトとナットの動きを思い描きながら稽古をするのですが、思うように身体が動きません。 

 理論と身体が思うようにリンクしないのです。もっともっと理論を頭の中で深く理解しないといけないと思いますが時間がかかることのようです。合氣道には無数の技がありその技が年数を経て業になります。深い時間の中で醸成されていきます。日々の稽古を繰り返し行うことでその確認をします。しかしその確認の中でつねに迷いが出てきます。その迷いとの格闘になります。自分の未熟さとの格闘と言ったほうが良いかもしれません。 

 指導師範の動きをお手本に模倣をするのですが、できるはずもなく、迷いばかりが積み上がっていきます。諦め、納得、諦めの繰り返し。これが稽古と言うものでしょう。一生続くこの繰り返しの中からときに何か手応えをつかむことを願いながら稽古を続けるのでしょう。 

 指導師範の稽古技は何十年の賜物。それを模範に習い習得する稽古は美徳そのもの。何年後の自分の進化が楽しみでもあります。私の周りの全てのお仲間はすべて先生です。ありがたいことです。これからも見逃すことなく稽古に励んでいきたいと思います。

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初段受験課題

「黒帯・袴/有段者の心得」

 橋本道場(優和会)

中村 保雄 

 黒帯・袴などは夢のまた夢、それどころか夢にも見ていませんでした。 「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず。」(孔子(『論語』)という言葉は好きな言葉ですが、この意味を心から感じるようになったのは、五十嵐先生の道場で稽古をしているうちでした。心から合気道を楽しむ自分がいました。いろいろなことを楽しんできたと思っていたのですが、その深さが違っていました。それ故、昇段ということは全くの他人事でした。 

  五十嵐先生から「審査を受けなさい」と言うお言葉をいただきましたが、すべての点において足りなすぎる私にとって、まさに青天の霹靂でした。審査を受けるという覚悟を決め、それからはいろいろな諸先輩に助けていただき、初段をいただくことができました。特に橋本師範には、手取り足取りご指導をいただき感謝の言葉もありません。 

 8級の技でも8級と初段がやるのは違うという、先生のお言葉を胸に、審査技を見直し、身につけていくべく、今後も努力を重ねたいと思っています。 

 「初心忘るべからず」というとおり、合気道をやろうと思ったときの気持ちを忘れず、初段になったときの未熟さや、つたなさを忘れず、今後、年だからもういいやなどと思わず、弐段を目指し、命ある限り、五十嵐先生の元で合気道を探求し、楽しんでいきたいと思っています。  

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参段受験課題 

「指導者の心得」

 橋本道場 

小川 博之 

 私は指導者としての実力をなんら持ち合わせていませんが、「仮に指導者となるとしたら、どういったことが求められるのだろうか」ということを、私なりに考えたことを書いてみたいと思います。 まず第一には「安全」です。 武道なので、ある程度は危険がつきものですが、人数やレベルに応じて稽古内容を選んだり、稽古中に危険が無いように注意することで、怪我を未然に防ぐよう配慮することが求められるのだろうと思います(いつも配慮いただいていること感謝しています)。

  第二に「教わったことを正しく伝える」です。 教わったことが、きちんとできていないのは自分自身でわかっていることなのですが、例え、そうであっても教わったことを正しく伝えようとしないといけないのだろうと思います。 そうしないと間違ったものが伝わってしまいます。 正しく伝えることができるように普段から稽古する必要があるのだろうと思います。 

 第三に「自信を持って、わかりやすく伝える」です。 指導するときには説明が必要ですが、自分に自信がないと、それが説明に現れてしまいます。 そうすると指導を受ける方は、戸惑ってしまいます。 指導を受ける側は「わかりやすく正しい説明」を期待しているわけで、それに応えなければいけないのだろうと思います。 わかりやすく正しく説明することは大変難しいのですが、普段から先生の話をよく聞いて、意識を集中して稽古することで培われるのだろうと思います。 

 第四に「厳しく、楽しく」です。 稽古は厳しくないと正しく身につきませんし、楽しくないと続きません。 稽古は厳しくないと楽しくないということもまた真だと思います。 これも難しいことだと思います(いつも楽しく稽古させていただいています)。 

 第五に「教えられるように普段から心がけて稽古する」です。 上にも書いていますが、人に教えるということは自分がよりよく理解していないとできないし、人に教えることでより理解が深まることもあります。 指導者としての自覚をもって普段から稽古することが大事なのだろうと思います。 

 今、「指導しなさい」といわれても拙い基本の技を、やって見せるだけで碌な説明もできないだろうと思います。 これからは、いつか人に教えることができるように日々精進していきたいと思います。 引き続きご指導・ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。 

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四段受験課題 

「合気道の極意とは」

 合氣道漸進会 

稲田 靖幸 

 学生時代から合気道の稽古を始めて30年経ちますが、一度も「合気道の極意」について気にしたことも考えたこともありませんでした。
 「極意」などただ楽しく稽古が出来ればよいと考えている自分には関係の無い事(「極意」という語感が大層な気がして)のように思っていました。
 この様な機会でもなければ考えない事ではありますので自分の出来る範囲で考察してみます。

  考察するとしても平凡な私が何の手掛かりなく考えても考察して行くことはできないので書籍やインターネットを利用しながら考察して行きます。
 調べると開祖が合気道の極意について述べられている書籍(「武の真人」‐砂泊兼基著‐P264)がありました。

  引用しますと「合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。 合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。 私はこのことを、武を通じて悟った。」精神的な事について述べられたのでしょうか、かなり難解な文章です。

  今の私ではこの意味を理解する事は出来なそうです。 そこで他に合気道の極意について述べられた物が無いかさらに調べました。 すると他の書籍を見つけることができました(「合気道」‐植芝吉祥丸著‐植芝盛平監修‐P129)「過ぎし年、入門した或る武道家が道主に向い、「私は過去六か月先生について教えを頂いたが、残念なことにまだ極意の技を教えて頂かない。 先生、極意とは如何なるものか形だけでも見せて頂けないでしょうか。」と言ったことがある。 道主は呵々と笑いながら、「君は何を言っているのか。 日々極意の技をやっているではないか。 今日教えた入身の投げなどは極意中の極意だ。 奇想天外な極意などというものは、武道においてはあり得ないよ。」と言ったことがある。」こちらも開祖が極意について述べられておりますが、先に引用した文より理解しやすいです。

  他に合気道以外から「極意」ついて述べられているものは無いか調べてみました。 すると茶道において極意について似たような事が述べられている事について知ることができました。
 要約すると千利休と或る弟子とのやり取りで弟子が茶道の極意について尋ねると千利休は「利休七則」と言う茶道において基本となる心得が出来ている事だと答えました。 尋ねた弟子茶道の基本となることですので当然知っていると返答すると、千利休は基本である「利休七則」がきちんとできるのであれば私(千利休)はあなた(尋ねた弟子)の弟子になりましょうと答えたそうです。

  以上の三つの引用/要約から私の理解に及ぶ範囲で合気道の極意について答えを出すと「合気道の稽古そのものが合気道の極意である。 ただし合気道の稽古をしているからと言って合気道の極意を得た事にはならない」でしょうか。  

 今回の考察によって極意自体は身近にあると言う事を知ることができました。 ただ極意を得るには並大抵の努力ではすまないようです。

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初段受験課題 

「感想文 (黒帯・袴/有段者の心得)」

 橋本道場 

ヤノビィアック ヤン 

 個人的には、有段者となり袴を身に付けて稽古できることは、私が何年にもわたって稽古してきた証しであり成長・進歩を示しているので、成人期といえます。

  私にとっての黒帯の概念は、成熟の象徴であるため、より多くの責任を伴います。これからは合気道の稽古の分野での達成のしるしだと思います。すべての合気道稽古生にとって、袴は個人が長年の稽古で得た結果を表しています。実際に初段というレベルを取得する過程では、ほとんどの技術と人体の内部の仕組みをしっかりと理解している必要があります。このレベルに到達するには、特定の技術をどのように体現できるかを理解するため、生体力学の基本的な理解が不可欠です。合気道のほとんどの技は、剣の動きが合気道の技の正しい適用とどのように一致するかを理解することも必要とします。

  初段をとるために合気道の基本を理解している必要があります。これは、技をかける人と受けの両方が調和している必要があります。受けを考慮し始める段階です。この調和の感覚がなければ、特定の技を適切に行うことは困難であり、受けは自分自身を傷つける危険があります。このため、合気道の受け・取りの双方が、技を適切にかけることと技に適切に反応することの間のこの関係を理解することが重要です。合気道の本質は、自身に対して受けの勢いを利用することです。

  初段の取得は合気道を真に理解することの始まりだと思います。袴を身に付けて稽古できることを許された者として、私は基本を理解し、基本のさまざまな応用を見ることが期待されます。黒帯であることに伴う責任は、生体力学の要素に関する私の知識を共有することによって、技を適切に実行する方法を他の人に教える義務を伴うでしょう。

  初段から続くステップは、個人が評価される技術がはるかに複雑であるため、昇段審査への期待の点で、はるかに厳しいものです。これを第一歩と考える理由は、これからも日本にとどまらず、世界で合気道を通して積極的に活動していきたいと思っているからです。将来的には、最初の段に到達する前に学んだ教えは、世界のさまざまな地域の他の道場にも適用できると思います。

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参段受験課題 

「指導者の心得」

 橋本道場 

足立 幸夫 

 私は、昭和53年より大学の合気道部で稽古を始め、昭和57年に合気道を辞めました。 大学を卒業したことにより合気道と疎遠になったわけですから「辞めた」という表現は適切ではないかもしれません。

  しかし、当時の私は金輪際、合気道などするものか“辞めた・辞めた!”というぐらい嫌っており二度と合気道とはかかわらないと心に誓っておりました。
 原因は単純、稽古の厳しさから合気道には辛い思いでしか残っていなかったからです。

  ところが・ところが! 月日が流れ、60歳を目の前にしたとき、なぜか足が橋本道場に向かっていました。 いまだに理由はわかりません。

  青春の辛い思い出を長い年月が美しい思い出に変えてくれたのかもしれません。 という詩的は表現が的確かどうかは不明ですが、とにかく40年ぶりの合気道は新鮮で色々な発見があり大学時代とは違って非常に興味深いものでした。

  達人かと思われる方々と接することや、二回りどころか三回りも若い方々との稽古は新しい発見ばかりです。

  40年前に習った技が、今になって「あー、そういうことなんだ」「あっ、だから転換するんだ」「えっ!力、要らないじゃん」と驚き、若い方々の動きを見ては「なるほど、合理的だ」「わかるー、そこ勘違いするよね」などなど共感やら感心やら。

  良く語られる言葉ですが、稽古を共にすると年齢や段位に関係なく、道場の皆さん全員が良き師であるんだなと思う今日この頃です。

  さて、この度「指導者の心得」いうお題を戴いたわけでございますが。。。合気道を大嫌いになったり、大好きになったり、こんな天邪鬼な私に「指導者の心得」を語れるのでしょうか。

  必死に汗をかいている若者に「この技は………」「あの技は………」と教えている姿は全く想像できないし、そんなことを言えるレベルでないことは自分でもよくわかっています。

  それでも、もしも、もしも私が後輩の皆様に伝えられることがあるとすれば、共に学びましょう。 共に楽しみましょう。 そしてたまーに、共に苦しみましょう。 この三つかなと。

  合気道は教えられても成長できるし、教えても成長できるものだと思います。

  皆さんを良き師として「共に教え、共に教えられる。」これが、私の指導者としての心得なのかもしれません。

  最後になりますが、不器用で物覚えの悪い私が、今なお道場に通い続けていられるのは笑顔で、そして寛大な心でご指導してくださる五十嵐先生のおかげです。 これからもご迷惑をおかけしながら稽古に精進してまいりますので何卒宜しくお願いいたします。

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参段受験課題 

「指導者の心得」

 橋本道場 

鈴木 康二朗 

 テーマを見たとき、そのような事が書けるのか考えて初心に返ることにしました。 始めようとしたきっかけは、何かの映像で技が決まったのがかっこいいと思ったからです。 始めは右手からか左手なのかや右回りか逆なのかもわからずでした。 少しずつ難しくなりそれが出来た時の喜びで今も続いているのだと思います。

  華道、茶道など『道』といわれるものは日々上を目指し励んでいると思っています。 それらは形から始まります。 合気道も形稽古から始まりそこに心が通っていくのだと思います。 そして上を目指して励んでいるのでしょう。 剣道、柔道も大変な量の練習を重ね限界まで頑張ています。 スポーツとなり勝ち負けという要素が強く負ければ引退し後進の指導にと向かう事が多いのではないでしょうか。 他と勝つ為の練習なのでしょう。 合気道は、その人の高みを目指した稽古だと思います。 合気道は、強いのかといった事を聞かれますがそれは無意味だと言えるでしょう、一人一人高みの方向が異なるからです。

  ディズニーランドの役員の方の講演を聴いた事があります。 ディズニーランドはいつ迄も未完成のままでそれは、ゲスト(お客様)に感動を与える為だそうです。 常に新しくし目先を変え来場のたびに新しい発見をさせて喜びを感じてもらうのだそうです。

  級でも段でも基本は大きく変わっていないとおもいます。 大きな違いは目指す高さだと思います。 合気道の稽古の新しさは外見で見える所ではなく見えないところにあり相手とぶつからない力など奥の深さを感じます。 今の目安は片手取りの転換など力を入れるのではなくいかに抜くかということです、次から次へとでてきそうです。 テーマパークとの違いは、感動は与えられるのではなく自分自身が動いて努力して感じるという事です。 伝えられる事は『興味を持って共に進もう』です。 自信を持って言えるよう稽古したいと思います。

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四段審査課題 

「合氣道の極意とは」

 八王子道場 

立松 祐樹 

 今年で30歳を迎えたばかりの若造が「合気道の極意」を語るには早すぎると感じるが、思うがままに書いていきたいと思う。

  私が合気道と出会ったのは4歳の頃、そして2年後の小学校入学と同時に五十嵐道場に入門した。それから子どもクラス、大人クラスと約25年程を経て、合気道を通して数百、大会などで演武を見ただけの人も加えたら、千を超える人と接する機会を頂いた。そして五十嵐先生が道場という場を私たちに提供して頂いたお陰で、幼少の頃より様々な年代、そして様々な国の方々と接することができた。学校の仲の良い同級生の関係でもなく、かと言ってビジネスの関係でもなく、これだけたくさんの方々とコミュニケーションを取らせて頂いた経験は、滅多に経験できないことであり、私の人生の宝であると思う。

  合気道とは、言葉は発しなくとも、技をかける際は相手との接点を通して、実にたくさんの情報を互いにコミュニケートしあう武道だと思う。相手の腕を掴めば、相手のどこに力が入っていて、どちらの方向に動かそうとしているかが、まさに文字通り『手に取るように』わかる。相手に変な力が入っていれば、「今、腕の●●のところに力入ってる!」とわかるから、私は他の方に指導をさせていただく際に「●●の筋肉に力が入っているから、力がぶつかって動かないよ」と言うことが多い。当然、逆も然りであるから、自分が技をかけるときは、より一層注意して動くようになる。

  相手に抵抗されるということは自分自身に変な力が入っており、それが相手に伝わっているということだ。そんなときは「今、力入ってるぞ!」と自分自身を注意する。このように、相手とのコミュニケーションだけでなく、自分とのコミュニケーションも合気道には欠かせないことであると考える。

  相手の気に抵抗すれば、双方の気が衝突したり、あるいは外方を向いてしまって、技は止まってしまう。一方で、相手の気に自分の気を合わせることで、抵抗されること無く、そして自分の意思で相手を倒れる方向へ導くことができ、相手を制することができる。この「気」を「合」わせることが、合気道の全ての技に共通する、合気道特有のコミュニケーションだと思う。

  世代を超えたコミュニケーション、国を超えたコミュニケーション、相手の動きが手に取るように把握できる接点を通じたコミュニケーション、自分自身とのコミュニケーション、そして自分と相手の「気」を「合」わせるコミュニケーション……この「コミュニケーション」こそが、合気道の極めるところ = 極意なのではないかと考えるところである。

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参段受験課題 

「指導者の心得」

 橋本道場 

吉沢 照夫 

 五十嵐先生のご指導を頂き、私は74歳になりますが楽しく稽古を続けています。 指導者の心得では、五十嵐先生はよく「人に指導することは自分の成長につながる」と教えて頂きました。人に教えるには正しく理解していることが不可欠になります。

  私は五十嵐道場に入門してまだ6年目ですが、これからも先生にもっと多くのことを学びたいと願っています。

  先生から教えて頂いた心得を自分ながらに「心・技・体」の観点から列挙してみると 

 1.相手を敬愛する心 

(1)相手の心を自分の懐に納めて、ぶつかり合わない和合の精神を理解する。 和合の精神は最近話題になっているパワーハラスメントを起こさない「愛の心と、絆」に通じることと思います

 2.原理に基づいた技の指導
(1)足捌き/正しい半身の取り方や間合い
(2)手捌き/力の伝達と方向
(3)崩し方/裏三角・表三角へ重心を移動して崩す方法 

 3.体作り
(1)体幹強化と柔軟性のアップ 

 4.初心者に対して特に心がける指導
[怪我をさせないことを最優先に]

(1)受け身の基本練習(足の出し方/手の付き方/頭を打たない転がり方)

(2)脱力(力を抜いて、投げに付いて行き怪我を防止する)

(3)柔軟性の向上(ストレッチで各関節の柔軟性をアップする)

(4)体力作り(成長期の体作り/体幹強化)

[合気道の楽しさを教える]

(1)技のレベルアップ(理論を教えて理由で理解/自分の頭で考えさせ興味を創生)

(2)持続させる(出来たことで自信を付け達成感と充実感を持たせる)

(3)楽しく稽古する(親身になって絆を作り、良い人間関係と環境を作る)

[まとめ]
 私はこれから後期高齢者に入ります。自分にとって合気道は健康の維持と、生きがいの1つになっています。

  今まで教えて頂いたことを若い人達に伝えながら末永く精進する所存です。今回の審査に当たり多くの方々からご支援をいただき感謝しています。

  これからもご指導よろしくお願い申し上げます。

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四段審査課題

「合気道の極意とは」

 橋本道場 

輿石 徹

 「合気道の極意とは」ということで審査課題を頂いている。一介の道場生に過ぎない私が、そのようなことを語る立場ではないとは思うが、稽古を通じて、得たことを書いてみた。

  そもそも極意とは何であろうか?自宅の辞書で調べてみると、「もっともむずかしい技術。おくのて。奥義」となっている。奥義は、「学問・思想・武芸・芸能などの深く研究しなければわらかない大事なことがら」となっている。ネット上の辞書では、「学問や技芸で、核心となる事柄」となっている。まとめると単純に技術というより、事柄ということで、幅広く意味を取ると、「深く研究(稽古)して得られる核心となる事柄」ということであると考えられる。

  三代目道主 植芝守央先生の著書の中で、「基本に極意がある。開祖は第一教に極意があると。しかし、突き詰めれば、どの技も基本の体捌きと呼吸法の組み合わせからなっており、全ての技が究極の技であり、極意だと言えます」(合気道 稽古とこころより)とある。また養神館の塩田剛三先生は、「合気道で一番強い技は自分を殺しに来た相手と友達になること」と述べている。どちらも、私には到達できない境地であり、そうなんだと受け取ることしかできない。

  合気道を学ぶ中で、いろいろと教えて頂いた。その時々で、わかったつもりになっていた。キーワードを羅列していく。自分の正面が最も力が出るので、正面で相手に対応する。接点をもつが、接点を動かさないで、反対側を使う。居着かない。意識を腹に落とす。力が入っていると相手も力が入る。肩甲骨から動かす。視点を変えると相手への力の作用点が変わる。テコの原理を使う。裏の三角と表の三角。体には陰と陽があり、陰を攻める。後ろへの意識。八の字の動き。呼吸を飲む。“合わせ”には段階がある。外円を使う。多人数は、一つにまとめる。相手の土俵で戦わない、など。同じことを違う角度で教えて頂いていることもある。いずれも極意やコツなのだろう。

  そもそも、合気道の合気というものが、極意なのかもしれない。大東流合気柔術においては、合気は技術だそうだ。本で調べたり、動画をまねてみたこともあったが、最近はどうでもよくなってきた。それよりも稽古を通じて得られたもののほうが自分にとっては大事である。以前は、合気道の根本にあるもの(合気?)は、相手に合わせることだと考えていた。しかし、稽古を通じて、“無理して”相手に合わせるのではなく、相手の動きを自分の動きの中に取り込むことが基本的な原理だと考えるようになった。つまり、相手と自分を合わせて、一体になるのだけれど、相手に自分を合わせるのでなく、“無理なく”相手を自分に合わせる。その場の主体者・主導権は相手でなく、自分である。合気道の稽古の中だけでなく、仕事でも生活でも大事な事柄である。これが私にとっての現状の極意なのだと思う。

  稽古を通じて、いつも、わかったつもりになる。しかし、また新たにわからないことが出てくる。頭でわかっても体では出来なかったりもする。極意がわからないから稽古している。だから、面白いのだろう。今後も稽古を通じて、わからないなりに、極意を得られるように努めていく。

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四段審査課題

「合気道の極意とは」

 橋本道場 

村上 俊幸

 合気道の極意は何か、と問われても答えられませんが、おそらく「人を動かす」ということに関わっているのだろう、と考えています。

  この「人を動かす」には、文字どおり物理的に動かす、ということから、感動させるといった精神的な影響によるものまで幅広い内容が含まれますが、合気道は物理的な力を作用させることで動かすことを出発点としている、と私は理解しています。

  だから、例えば、触れずして人を投げ飛ばすことは合気道の範疇外と思っているのですが、その一方で、合気道における力の作用のさせ方やその考え方は力学的な手法だけをもとにしている訳ではない、とも考えています。 力を作用させるにあたって、その相手の無意識の協力を引き出す、少なくとも邪魔をしないようにはしてもらう、そして、可能であれば相手にも動きを主導してもらう、といったことを考慮しているのだろう、と。

  そして、それがいかにして実際に実現しうるのか、というあたりに合気道の極意が潜んでいるのではないでしょうか。それが何なのか、今の自分にはわかりませんが、仮にそれを会得できたとしたら、それは老いた後に顕わになるのだろうと考えています。能の創始者である世阿弥の言う「まことの花」と重なるように思うからです。

  振り返ると、五十嵐道場に入門して十数年、細々と、途切れずに稽古を続けてきました。今では、時に、他の方に対して「ここはこうして・・・・」とアドバイスしている自分がいて、後から恥ずかしくなるのですが、それなりに上達はしているのだろうとも思います。

  ただ、出来なかったことが出来るようになるだけでなく、以前は出来た(と思っていた)ことが出来ないということもあり、これから老いていくにしたがって、その度合いは大きくなっていくだろうと思います。メッキが剥がれていくようなものでしょうか。

  筋力が衰え、俊敏性も無くなっていくに従い、そうなっていくのはある意味当然なことなのでしょうが、そのような状況でも、それなりのことができるのであれば、極意を会得しているといえるのでは、と考えるのです。

  さて、現状、そのような極意は自分には関係なさそうだな、とは思っています。これで良いと思っていたことが、後で、それではダメなようだと判明することも多く、何か根本的なことを理解してなくて右往左往している段階にいるような感じを持っています。

  ただし、今後どうしていけば良いのか、ということについては、稽古を積み重ねるということだ、と思っています。それが答えだ、とわかっているということではなく、それ以外に思い浮かぶことが無いので。だから、今後も、日々の稽古でうまく出来ないことも繰り返すことで、いつかは出来るようになるだろう、とシンプルに考えて稽古を続けていきたいと思います。

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参段審査課題

「指導者の心得」

 橋本道場 

佐々木 奨

「え、試合がないの!?」
 10年前、初めて合気道を知った時に抱いた素朴な感想です。バスケ、サッカー、水泳と様々なスポーツに触れてきましたが、どれも当然に試合がありました。むしろ試合に勝つ為にやっていたと言っても過言ではないと思います。
 では、「試合がない合気道は何の為にするのだろうか、何を目指しているのだろうか」この問いに対する答えは、結論、人それぞれ違うと思います。各々が答えを見つけ出す上での一つの道標となること。また、見つけ出した答えを尊重し、その実現の手助けをすること。これこそが、指導者として常に意識すべきことであると考えております。

  私は大学一年生から部活動で合気道を始め、二年生時に黒帯を頂き、三、四年生時に主将を務めました。明治大学というスポーツ強豪校の体育会の中に於いて、試合がない合気道部は異質な存在に感じられました。当然、全国大会優勝!や何連覇!といった功績からは無縁、対外的な成果を示すことは困難でした。一方で同じ体育会として、輝かしい成績を残す他部と伍して並ぶべく、日々過酷な稽古を積んでおりました。さすがにモチベーションの維持が難しく、わずか半年で同期は1/3以下に減りました。そんな中、私が今日まで合気道を続けているのは、ひとえに五十嵐先生と出会い、合気道をする答えを見つけることができたからです。

  「身体の可能性の探求」が今の私の答えです。初めて五十嵐先生の技を受けた時の感覚は衝撃でした。「Mind Moves The Body」言葉の意味は分かりましたが、実際に体験すると信じがたいものがありました。人間はその脳の10%か、それ以下しか使っていないと言われることがありますが、その身体も大いなる可能性があると実感した瞬間でした。今でも五十嵐先生の手を取る度に、「わからない」不思議で楽しい体験をさせて頂いております。

  健康増進、世界とのつながりを作りたい、楽しいから等々、人それぞれ合気道をする理由、合気道を通じて得たいものは異なると思います。私は自らの答えを実現すべく努力するのと同時に、誰かに答えを見つけ出すキッカケを与えること、そして、その答えの実現に向けて一緒に取り組むことを意識していきたいと考えております。試合がないからこそ、各々の自由な合気道があり、奥深さ、面白さ、楽しさがあるのだと思います。

  五十嵐先生、今後ともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。

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参段審査課題

「指導者の心得」

 八王子道場 

吉田 隼人

 大学の部活動として始めた合気道ですが、現在では9年目に達し、来年度には10年目を迎えようとしております。まだまだ諸先輩方達には及ばぬものの、続けていられるのは先生、指導者の方々、共に稽古に励む人達のおかげであると思うばかりです。

  『指導者の心得』という表題から、私が指導をする上で心掛けていることは自主性を持たせることです。合気道は試合がない武道の為、明確な目標設定やモチベーションを維持し続けることが本人の自主性に大きく関わってくると言えます。

  武道・スポーツ問わずにも言えることですが、指導者の役目は単に技術を教えることに集中するのではなく、稽古する人に対して「反省すること」「疑問を持つこと」を習慣づけさせることが、非常に大事であると思います。この2つの習慣をつけさせる為、どのような指導を行えばよいか。

  例えば、初心者が始めて技を行う時、まず型を覚えるところから始めることになります。型を指導する際にはどんなに違う動きをしたとしても相手を責めたりはせず、間違ってしまった動きに対しては間違っている理由を説明する必要があります。理由を説明することにより、間違った動きへの反省と技の理解を深めさせることが出来ます。合気道の稽古は反復練習することが基礎となるので、このような指導を繰り返して行うことにより、2つの習慣をつけることが可能です。
 その際に注意することは、この習慣を強制するようなやり方はしないということです。何故駄目だったのか反省しろ、というような強制をされればこの習慣は受動的、いわゆる「言われるからやっている」ということになり、そのような稽古を続けていればモチベーションは必ず低下していくことになります。

  私も大学で指導をする機会はありますが、指導する上において見取りの際、取手と技は指定しますが、技のかけ方については強制することは行いません。その人が教わってきたことを出してもらいます。自分から出した技に対して技がかからなかった場合、何が駄目だったのかという疑問を持たせ、稽古生の自主性を育てるよう指導しております。

  私も指導者としては未熟な者です。述べさせて頂きました自主的な習慣を持たせるような稽古を積むだけではなく、自らも稽古の際には一つ一つの技に対して疑問を持ち、反省することを大事に今後の稽古を様々な方と共に励んでいきたいと思います。

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弐段審査課題

「合気道の稽古で得たこと」

 合氣道漸進会 

前田 薫

 私が、漸進会に入門してから約3年が経ちます。漸進会に入会する前に、他の道場で稽古を重ね昇級試験も受けていました。その時は、級が上がれば他の技が出来る喜びと、難しい技が覚えられるかの不安もありました。しかし、何度か稽古を重ねると自然と技が身に付き、動けるようになり、さらに合気道が楽しくなった時に、その道場が無くなり漸進会に入会を致しました。

  そして、漸進会では体術の他に剣杖の武器も習うことが出来き、さらに覚えることが沢山ある武道だと感じ、覚えることで必死でした。週2回の稽古を重ね、昇級試験を受け目標であった初段の試験も無事に合格することが出来ました。
憧れであった黒帯と袴を身に付けたことで達成感はありましたが、何か自然と、ここから始まりだという気持ちが出てきました。さらに感謝の気持ちがでて、自分一人でなく、ここまで教えてくれた先生方や家族の支援のお蔭で、ここまで来れたことを有難く思いました。

  初段を取得してからの稽古では、技を覚えることもそうですが、相手に怪我をさせないことや、思いやり、素直な気持ちで稽古を続けることで自然と体が動くことができ技も身に付けられるようになりました。
 そして、合気道を続けて学んで得たことは、相手に怪我をさせない・しない事と、素直に指導を聞くこと、そして、感謝する気持ちが大事なんだと思います。これからは、さらに稽古を重ね合気道のすばらしさ厳しさを経験し自身の成長と共に、皆さまと楽しく稽古を続けられるように精進して参ります。

  これからも家族一同宜しくお願い致します。

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弐段審査課題

「合気道の稽古で得たこと」

 橋本道場 

田中 仁

 私が合気道の稽古で得たことは自己研鑽のきっかけです。

  技の研鑽を続けるものに月日は流れない積み重なるのだ。という言葉を目にしてからずっと頭の片隅に残っています。一つの技を覚えて、それが当たり前のようにできなくてはならないと。一つの技を覚えても、稽古の中で一つ、また一つと欠点や間違いが見えていきます。毎度の稽古の最中、注意を受けて、少しずつ修正をしていきます。自分が申しぶんなくできていたと思っていたことが、他者の目からはまだいびつな部分が見えており、出っ張った角を削っていくように技は研がれていきます。
 自分が生きていた中で、知っていたこと覚えていたこと、できていたことがいつの間にか忘れていたり、なまって使えなくなってしまったものがあります。それは、算術でもあれば、学校で覚えた歴史や、走り方や泳ぎ方もあげられます。技能や知識は使わなければ、時間とともに衰えていくのだと、身をもって痛感します。それでも慌ただしい日常の中ではそれすら気づくこともなく、毎日を過ごしています。
 稽古をしていくと未だ未熟な部分が山のように見つかり、まだまだ始まったばかりだと感じます。置いてきたもの、忘れたものを取り戻すことは難しいですが、それよりも新しいことをよりよくこなせるようになるための気づきを得ることができました。

  もう一つは自信です。

  人と対面で近い距離で仕事をする職業に就いておりますが、引っ込み思案の性分であり、他人を相手に大様な態度より、慎重を選ぶので、相手を不満にさせてしまうことが度々ありました。相手の内実に鬼が潜んでいるかのように内心おびえながらも仕事をしていたのが伝わってしまったこともあるでしょう。稽古をつけてもらううちに、大抵の相手に対しては悪意がないこと、善意はあっても痛いことがたまたまあるということも分かってくるようになりました。
 最近は身近な隣人が殺意を向けてくる事件を度々目にしますが、もしも、暴力な行いが脅かしてきたのなら、まずは逃げることを選びます。脅かされたとき、人は心理的には動けなくなりますが、このときに「自分は大丈夫」という自信があれば、その場においての選択肢が現れます。稽古においては、捕まれた場合の対処法を主に鍛錬します。その際の要諦に脱力をすることがあげられます。相手を受け入れることで技が掛けられるからです。そのような用法を学ぶことで、有事の際に思い起こすことができるのです。未だにその心は練り切れていませんが可能性ができたと信じています。

  稽古を続けていくことで、その精神を磨き続けていけると思います。未だに頂の見えない麓ばかりを歩いていますが少しずつ登って、名人達人たちが見ていたであろう新たな景色が見える場所を探していきます。

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参段審査課題

「合気道の稽古で得たこと」

 橋本道場 

森田 啓資

 このたび12年振りに合気道を再開しましたが、改めて合気道の奥深さと難しさ、そして楽しさを感じています。その中で私が白帯の方と稽古する際に心掛けている事は次の3点です。

  1つ目は、絶対に怪我をさせないという事です。合気道の稽古は取りと受けに分かれており、無理な技をかければ、受けは必ず怪我をします。ここで大切な事は、怪我をさせないように、ただ優しい技をかけるのではなく、どのように技をかければ怪我をするか十分に理解した上で、技をしっかりとかけてあげて、受けの取り方を体で覚えてもらう事です。
合気道は同じ技でも相手によって全く技の掛け方が異なりますので、まずはどんな相手でも怪我をせずに受けが取れるように指導する事が重要と考えます。

  2つ目は、反復稽古を多くする事です。白帯のうちは出来る限り数をこなし、頭で考えて動くのではなく、体が自然に反応して動くぐらい、何度も何度も同じ動作を繰り返す事によって、基礎が出来上がってきます。基礎を築く事ができなければ、応用を学んでも上辺だけの軽いものになってしまい、底力が身に付きません。
ここで私が白帯の方と稽古する際に大切にしている事は、基本通りの技を正しくかけ、また相手の技に対し素直に受けを取ってあげるという事です。上級者がここで横着に稽古をしてしまうと、せっかく数をこなしても、白帯の方が正しい基礎を築く事が出来ないからです。

  3つ目は、相手をよく観察する事です。特に白帯の方と稽古する際には、動作だけでなく、表情の変化や目線の方向、コミュニケーションのやり取りなどに注視する事によって、何が理解できていないのか、どこに自信がないのかを、出来る限り感じ取るように心掛けています。上級者が注意すべき事は、教える事に夢中になってしまい、教わる側が理解しているかどうかが二の次になってしまう事です。指導というのは、相手が成長できるように導く事ですので、相手が成長しない教え方は指導ではなく、単なる教える側の自己満足である事を肝に銘じています。

  今後も合気道を通して自分自身を磨いていくと同時に、稽古仲間と楽しく気持ちよく稽古し、そしてお互いに高め合える関係性を築いていきたいと思います。

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弐段審査課題

「合気道の稽古から得たこと」

 橋本道場 

村上 博之

 合気道の稽古は、主に二人一組で行います。受けと取りを分担し、交代で行います。私はこの稽古方式を通し、相手への感謝を改めて学びました。
技の上達に、稽古相手の存在は不可欠です。技をかけられ、自分の体で技の効果を理解し、今度は相手が技を受けてくださることで、さらに理解を深めます。

  合気道は他者と競わず、お互いを高めていく和合の武道であることは、広く知られています。しかし、その過程で学ぶ術理は、「戦い」を制し、自らが生き残るための武術本来の姿だと思います。
仮に容赦せず技を掛ける、あるいは掛けられた結果を想像すると「怖い」と言う感情が強く湧き上がってきます。
 技の効果を理解し想像することで、反対にある「平常」や「健やかさ」の大切さに改めて気づきます。さらに、その気づきは相手を敬い、尊重する大切さにも繋がっていきます。合気道は「人のつながりを大切にする武道」と言う考えに、私も大いに共感します。

  一方、合気道の「強さ」から学んだことは、「あきらめない心」や「主体性」です。技を修得する上で、形にすらできない時、必ず弱気な自分が出てきます。
ある日、先生は「ダメだとあきらめたら、そこで終わりです」と言われました。
私の中には「戦いの中であきらめること」「努力をあきらめること」のふたつの解釈が浮かびました。
前者は武術の本質から命が終わること、後者は技の上達が止まることと考えました。
あきらめず取り組むことで、可能性は持ち続けられます。「不器用でもあきらめずに努力しよう」そう思うことができました。

  「主体性の大切さ」についても、先生から教えて頂きました。片手肩取りの技の時、先生は「持たれるのではありません。持たせるのです」と言われました。漫然と取られていては、技にはならない。呼吸、重心、体の開き具合、胆力、心構えなど自らが意識して備えていくことが大事だと思いました。

  生きていると、ままならない現実や自分の力ではどうにもできない物事の流れに直面することがあります。そんな時、不利な条件下でも屈しない合気道の強さとしなやかさを自分の生き方にわずかでも取り込めたら、人生に広がりが得られるのではないかと思うようになりました。

  私は先生を始め、五十嵐道場で稽古されている皆さんから良い刺激をたくさん受け、合気道を続けてこられたのだと感謝しています。稽古を通し、心身は健康になり、合気道の上達を目標に充実した毎日を過ごしています。そして、合気道から学んだことを、自らがより良く生きるために活用させていただいていることが、何よりの成果と考えています。

  これからも合気道をライフワークとし、探求者としての気持ちを忘れずに、真摯に取り組んでいきたいと思います。
 五十嵐先生、今後もご指導をよろしくお願いいたします。高段者の皆さん、変わらぬ助言をよろしくお願いします。
 道場で稽古される皆さん、本日も稽古のお相手よろしくお願いします。

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弐段審査課題

「合気道の稽古で得たもの」

 橋本道場 

矢吹 奨一

 私が五十嵐道場で初段を頂いたのは遡ること平成11年のことでした。
 就職でブランクが出来たり、他の合気道団体、他の武道も経験したりと紆余曲折ありましたが、再び五十嵐先生の下でご指導を受けることとなり今回審査を受ける許可を頂き、とても感慨深いものを感じています。
 そして先生のご指導の下、これからも稽古に邁進していきたいと決意を新たにしているところです。

  さて、合気道で得られたものとのテーマですが、数多くありすぎて中々一つに絞るのは困難でありましたが、敢えて一つ挙げるとすればそれは心の鍛錬による平常心の醸成であると思います。
 武道全般にいえることではありますが、稽古において相手から面打ちをされたり突きを打たれたり掴まれたりというのは非日常的な事で、その非日常を日常的に稽古していることにより、有事が発生したとしても心の鍛錬を積んでいれば平常心を保って向き合うことが出来ます。
 合気道は護身術の一面を持つ武道でありますが、護身において技術以上に大事なのは気持ちの強さであり平常心を保って対応することであると思います。
 演武会で人前で披露することも気持ちが乱れていれば技も乱れるのは演武会に出た事がある方ならよくお分りかと思います。
 なので演武会に出ることは技を磨くことのみならず、心の稽古にもなっていると考えています。
 平常心は普段の生活や仕事においても最も重要視されることの一つでもあり誰もがどんな時でも平常心を保てたらと思ったことがあるかと思います。
 合気道の稽古は数ある武道の中でも気の発揮や運用などを重視する武道であるので心の鍛錬をするには最適な環境だと思うのです。

  私は合気道を通じて技術の習得のみではなく心の稽古も行い、平常心を養ってこれからの日々の生活に活かして行けるよう精進して行きたいと思っています。

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