今までの人生
武道歴64年・道場創立41周年を振返って
「私の修業時代」
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公益財団法人日本武道館発行「月刊武道」令和6年2月号(1月26日発行)に、合気道道主植芝守央先生のご推薦をいただき「私の修業時代」のテーマで寄稿いたしました。すでにご購読いただいた皆様も多いのではと思います。有難うございます。
イギリスの劇作家シェイクスピアの言葉に「過去は序章」、「記憶は精神の番人」があります。今のいままでが過去であり、これからが人生の本章です。記憶が精神の番人なら、私の頭の中から記憶が無くなる前に記録が必要です。過去を振り返る最良の機会をいただきました。
武道誌への寄稿は6~8頁という制約もあり書き足りないところも多々ありました。これを機に、同誌の編集部のご了解を得まして、同誌への寄稿文を土台にして加筆・修正して「私の修業時代」として、新たに書き上げました。五十嵐道場のホームページをご覧の皆様の稽古に少しでもお役に立つことがありましたら嬉しい限りです。
道主植芝守央先生に感謝申し上げます。とともに「月刊武道誌」編集部のみな様へ、この度のご配慮に御礼を申し上げます。
最後になりましたが、今日まで公私ともにご指導をいただきました小林保雄先生に、これからのご指導をもお願いして深く感謝申し上げます。
「はじめに」
私は、神奈川県立鶴見高校在学中、柔道部に所属し3年間鍛えられました。当時の私の体重は48キロ、身長160センチと小柄でしたが、県内の高校柔道大会50キロ以下クラスでは結構強かったことは自慢の1つです。私の得意技は、足技の小内・大内刈りからバランスを崩し、背負投げか袖釣り込み投げでした。一本とれた時の快感と喜びは競技武道ならのものと言えます。しかしながら「柔よく剛を制す」を体現するまでは無理でした。
第1回東京オリンピック開催に沸いていた昭和39年4月、明治大学に入学しました。柔道場で合気道の演武を見学、さらに合気道部4年生の「合気道は小さな身体でも大きな人を投げることができるんだ!」という、柔道では経験したことのない【魔法のような言葉】に惹かれ、即入部を決意しました。
大好きな合気道の稽古も61年目を迎えました。これまでの稽古の日々を振返ってみたいと思います。
□ 武道との出会い
【柔道との出会い】
私が生まれたのは、新潟県東蒲原郡三川村(現:阿賀町)です。隣町の津川は柔道の西郷四郎の生誕の地です。私は、幼少時から父親の仕事の転勤のたびに転校を繰返しました。幼稚園で2回(新潟県佐渡、糸魚川市)、小学校で2回(新潟県髙田市、新津市)、中学校で2回(北海道札幌市、横浜市鶴見区)、高校では2回(横浜市神奈川区、東京都中野区)の引越しを経験しました。短い時は半年で転校ということもありました。今の私を良く知る皆様には想像もできないでしょうが、中学生になる頃には転校を繰返す度に、人見知りで家に閉じ籠りがちな内向的な子どもになっていました。
そんな自分を鍛え直そうと神奈川県立鶴見高校に入学した時、思い切って柔道部に入りました。その頃には、東京オリンピックで、柔道競技が正式種目となり柔道人気が盛り上がりを見せていました。私も代表選手の神永選手と猪熊選手の名前を記憶しています。
私は球技を始め、どちらかというと運動音痴なところがありました。武道は運動神経が必要ないという上級生の言葉を信じ3年間頑張りました。柔道部は県下でも毎年上位に入る強豪校でした。顧問は渡瀬季彦先生(柔道六段)で、学校では古文を教えていました。拓殖大学柔道部のご出身で神奈川県と横浜市の柔道協会の役員もされていました。藤沢周平の小説に出てくるような“飄々とした古武士”のように柔道場に稽古衣で現れ、県下でも上位の強さを誇っていた3年生を軽い捌きでポン・ポン投げていました。
高校の横に、広大な県立三ツ池公園があり、道場の稽古以外でも起伏のある公園内でマラソンや30段以上もある階段で、うさぎ跳びや上級生をおんぶしての上り下りなどのトレーニングをよくやりました。1年生の秋を迎えるころには体力・筋力にも自信が持てるようになりました。
柔道部では毎年4月の1ヵ月間、東京水道橋にある柔道の総本山・講道館に通って稽古をしていました。同時期は、新入部員に受身や基本の動きを教えるだけなので多くの上級生が不要ということで、指導のために2~3名の3年生が残りました。私も2年、3年生の時、放課後に鶴見から水道橋の講道館まで通いました。講道館での稽古は、県内の試合とは違った緊張感でいっぱいになりました。とても良い経験になりました。
稽古のかいもあって、2年生の終り頃には横浜市武道館での昇段審査で初段をいただきました。また、この頃に読んだアメリカの実業家アンドリュー・カーネギーの著書にあった「明るい性格は財産よりもっと尊い」という言葉との出会いもあり、私の内向的な性格も少しは明るい性格へと改善されました。柔道との出会いに感謝しています。
【合気道との出会い】
高校時代に武道の面白さに触れたことで、大学でも何か武道をやりたいという強い想いをいだくようになりました。明治大学に進学してからも柔道を続けたかったのですが、体育会柔道部は大学柔道界のチャンピオンや世界チャンピオンを多く輩出する名門大学です。私のような弱者が入る余地などありません。そこで、柔道同好会が活動していることを聞きつけ、道場を訪れることにしました。
京王線明大前にある和泉キャンパス内の柔道場は80畳敷きのとても広く天井も高い立派な道場でした。私が訪問した時、すでに柔道同好会の姿はなく、代って稽古をしていたのが合気道部でした。初めて見る合気道の第一印象は「なんだ!これは?」でした。昭和30年代後半は、合気道という武道は、まだ世間には広く知られてはいませんでした。
■明治大学合気道部へ入部、合気道の道へ
合気道部は、4年生が25名、3年生も2年生も各10名以上、私たち1年生の入部者も30名を超えていました。3年生、4年生はすべて有段者です。そして、合気道部の監督は合気道本部道場師範の小林保雄先生(現八段)、助監督が浅井勝昭先輩(現ドイツ合気会師範・八段)です。
月曜日から土曜日まで夕方5時から7時まで毎日2時間の稽古です。私たち新入生は毎日、昼休み時間に体育館屋上に集合し、2年生の指導で大声での挨拶と校歌・応援歌の練習です。また道場での稽古は「投げられて覚えるものだ!」という先輩の指導で、ひたすら投げられるだけ。広い道場の周りをうさぎ跳びと膝行で数周。あっという間に筋肉痛と膝頭から出血で稽古着のズボンは真っ赤です。
さらにトレーニングの極めつきは裸足でのマラソンです。長距離としては和泉校舎から石神井公園や新宿駅西口までも走りました。往きは全員で、大声で“イチ、ニ”の掛け声で、帰りは現地から“よーい・ドン”で競争です。
年に1~2回、明大駿河台校舎で着替えて、皇居マラソンも行いました。やはり1周目は全員で、大声で“イチ、ニ”の掛け声で、2週目は“ヨーイ・ドン”で競争です。皇居前の砂利道はキレイに整備され、ガラス片などは落ちていません。裸足で砂利道のマラソンは、最初は足の裏が痛くなりました。しかし、面の皮と同様に足の裏も厚くなることを知りました。
また、不祥事があると、連帯責任という名のもとに厳しいトレーニングが待っていました。今風に言えば、正にブラックです。稽古後に同期と「合気道部というよりは、トレーニング部だね」とよく言い合ったものでした。上級生の言によると、1年生の人数を減らすことにあったようです。今になって現役のころを思い出すと、そのような辛かったことばっかりですが、なぜか懐かしくなります。上級生の思惑通りに、夏を迎えるころには半分ほどになっていました。
大学の夏休みが始まる7月下旬から10月いっぱい、東京オリンピックの柔道競技に参加する海外選手の練習場所として大学柔道場が貸し出され使用できなくなりました。夏合宿が終わり、9月下旬の後期の授業が始まってからは、山手線大塚駅そばの「合気道大塚道場」で稽古が行われました。大塚道場での稽古がない時は、新宿の合気道本部道場に稽古に行くようにと上級生からの指示もあり、本部でも稽古するようになりました。
当時の本部道場の先生は、植芝吉祥丸若先生、藤平光一師範部長、師範の大澤喜三郎先生、山口清吾先生、有川定輝先生。若手指導員の小林保雄先生、五月女貢先生、千葉和雄先生、藤平明先生、金井満也先生など、植芝盛平開祖の内弟子の先生方でした。その当時、イタリアの多田宏先生、フランスの野呂昌道先生、田村信喜先生、アメリカの山田嘉光先生はすでに現地で指導されており、指導を受ける機会はありませんでした。
【開祖:植芝盛平先生】
当時は開祖の植芝盛平先生はご健在で、日比谷公会堂の全日本演武大会や学生演武大会などで、植芝盛平翁先生の演武を拝見していました。第一印象は「神様だ!」という思いだけでした。本部道場での稽古でも時々、翁先生が道場にお見えになりました。「翁先生がお見えになりますので、正座をお願いいたします」と、指導の先生の声で全員が正座して翁先生をお迎えします。道場では、指導の先生を受けにして「合気道の神髄」を見せてくださいました。そして古事記とか神様のお話をよくしてくださいましたが、内容が難しく正直なところ覚えていませんが、その頃には足がしびれていたことだけはよく覚えています。もったいないことをしたと今は思っています。
植芝盛平先生の演武を間近に拝見したのは、合気道部2年生の昭和40年秋、当時の文部大臣・中村梅吉先生が本部道場を訪問した時です。本部道場の指導師範の演武の後、最後に翁先生が、数人の内弟子の先生方を受けに「合気道の神髄」を見せて下さいました。私たちの見学席からは、ほんの4~5メートル先です。その迫力に感激したことを鮮明に覚えています。
■国鉄で早朝の押し屋のアルバイト
自宅のある中野の最寄り駅は、中央線・高円寺駅です。大学1年生の10月、駅構内で朝の通勤・通学時間の一時間半だけの「通称:押し屋」のアルバイト募集のポスターを見つけました。時間は月~土曜日の朝七時から八時半まで、一日の給料は150円です。早速、翌日の朝から高円寺駅上りホームに駅員と同じ帽子、服装で立つようになりました。ご存じのように当時の都心の国鉄各駅のラッシュ時の乗車率は半端なく、私たちの出番なくしては時間通りの運行は不可能と言えました。仕事は単純です。ドアーから車内に入りきれない乗客を“ただ車内に押し込む”だけのことです。正に「座技呼吸法」の応用です。
このアルバイトは卒業の43年3月まで続きました。朝は6時に起床です。よく頑張ったものです。これも「修行」と言えるのではないでしょうか? 休まずに頑張った月の給料は3,500円にもなり、自分の生活費と学費の一部にあてました。
一九会道場での禊修行
3年生の5月、禊修行の「一九会」に参加しました。道場は東京の東久留米の畑の中にありました。人生の中で、最も強烈な印象と苦しかった思い出であり、正に修行といえるものでした。米1升とわずかな会費を納入し、木曜日の夕方から月曜日の朝までの4泊5日の修行。現役部員は、膝の悪いもの以外は原則参加です。道場に入ると自分の物は靴からすべてを預け、白い稽古衣と白袴を着用します。修行は、朝に太陽が上がると同時に始まり、太陽が沈む夕方で修行が終わるという実に自然とともに行われます。道場責任者は、日野先生ご夫妻。参加者は、すべて大学合気道部現役部員10名です。
禊修行は、1日に1時間の正座を10回行います。正座中は導師が振る鈴に合わせ「とほかみ・えみため」という祝詞をひたすら腹の底から大きな声で唱えます。少しでも姿勢を崩した時や、声が小さいと、左右・後に「集い」という、すでに修行を終えた人が座っていて背中、大腿部を強打して修行に打ち込めるよう補助をします。修行の終わる日曜日ごろには、背中や大腿部は紫色になり、喉もつぶれ、かすれ声になっています。その手助けがなければ、到底この厳しい修行は成就できないものと納得です。日曜日最後の10座で厳しい修業が終わります。初めて入浴が許され汗にまみれた身体を洗います。そして直会、修行成就のお酒と食事をいただきました。普通のことがこんなに素晴らしいものかと再認識する時であり、感謝の心でいっぱいになりました。日野先生ご夫妻や集いの方々に本当に感謝です。
解散の月曜日は1座だけで終わり。5日振りの外の景色は、今までと違って本当にすべてがとても美しく見えました。そして穢れのない少年に戻ったような素直な気持ちになります。これも苦しい修行の賜物。そして修行を成就した潰れた喉から絞り出すような“かすれ声”は成就した者のみが誇れる勲章でもありました。
現役時代の合宿
夏休みと春休みには強化合宿がありました。期間は1週間です。夏は長野県や新潟県のスキー場、春は少し暖かい海沿いの合宿所(民宿)で行います。合宿中は、もちろん禁酒・禁煙です。
3年生の夏合宿は、北海道岩見沢自衛隊駐屯地で行われました。通常の合宿の起床は5時半ですが、自衛隊の起床時間は6時で、少し楽だったことを覚えています。しかし起床と同時にベッドを整理整頓しなければなりません。そして駆け足で広場に集合、国旗掲揚です。素晴らしい経験と体験をいただきました。
4年生の現役最後の夏合宿は、茨城県日立市の郊外で行われました。合宿所は、広い庭の中に50メートル・プールがあり、水中トレーニングとして水球やプール内でダッシュも行いました。
合宿には毎回、監督師範の小林保雄先生が2泊ほど指導に来てくださいます。先生がお越しになると合気道の稽古だけでトレーニングが少なくなります。下級生の時は、先生がお越しになるのを“首を長くして”待ったものです。しかし、上級生になり幹部になると、先生がいらっしゃると幹部としての自由が無くなり「先生はいつお帰りになるのかな?」など不謹慎な考えが幹部の中で囁かれます。
後日、私は合気道の専門家としてコーチと監督を長く務めるようになり、合宿へも指導に行きました。そんな時、私の現役幹部時代に思った「先生はいつ帰るのかな?」を現役に聞いてみると、彼らからは「そんなことは考えていません!何日もご指導ください」という返事が。でも、現役が考えていることは分かります。時代が変わっても同じです!
岩間合気神社
日立市郊外で行われた夏合宿終了後、小林保雄先生の引率のもと岩間合気神社で行われていた「合気大祭」を訪れました。翁先生の演武を拝見した後、翁先生と現役一同が記念撮影をしました。私にとりまして開祖との貴重な1枚になりました。と同時に、開祖盛平翁先生にお会いした最後となりました。
□ 稽古の日々を振り返って
【大学卒業と社会人として】
昭和43年春、大学を卒業。兄の勧めもあり建設設備技術誌の出版社へ就職しました。出版社は2冊の月刊誌を出版していました。私のメインの仕事は編集、小さな会社でしたので広告営業も兼務、日曜日、祭日もないような毎日でした。日本経済が上向き、みんなが活気づいていた時でもあり充実した社会人生活でした。そんな中でも、時間ができると大学の稽古に出たり、小林道場に行ったり、本部道場の越年稽古に出たりと、年に数回ですが頑張っていました。
45年春、父が退職し東京中野から横浜市南区に引っ越ししました。横浜に移ってからは、西尾昭二先生が指導する合気会横浜支部に短期間でしたが稽古に通いました。また、大学合気道部の同期の飯森君、阿部君が菅原鉄孝先生の指導する相模原市と座間市の道場で稽古していました。私も、その縁で日曜日に時々稽古に通わせていただきました。
菅原先生は本部道場で合気道を始め、後に岩間道場の内弟子となり開祖植芝盛平先生と斎藤守弘先生の指導を受けられた先生です。本業は港リサーチという出版社を経営する社長です。菅原先生とのご縁で、先生の道場の岩間道場合宿にも誘っていただき数度ほど参加しました。もともと武器技が好きでしたので、岩間道場での稽古は厳しかったですが楽しく、小林道場に住込みを始めた時も含めて数回、一人で1泊2日の泊まり込みで通ったこともあります。後に菅原先生が斎藤先生の合気道技法5巻を出版した時に編集のお手伝いをしました。
仕事も給料もサラリーマンとしては、とても充実していました。しかし、時には休みもない日々を過ごしているうちに、徐々に自分を見失い始めていました。そんな生活が続いた昭和47年10月、小林保雄先生から「合気道所沢道場開き」の案内状が届きました。この手紙により、私の人生が一変しました。
【小林道場の住込み内弟子になる】
11月3日の文化の日に、小林道場・所沢道場開き式が、多くの来賓、合気道関係者が出席して開催されました。小林先生は、ご挨拶の中で「所沢道場の開設に合わせ、合気会本部道場を退職しました。“一人でも多くの人に合気道を!”を小林道場のモットーとして合気道の指導・発展に尽力します」と力強い覚悟を述べられました。式も滞りなく終わった直会の席で、酒に酔った勢いで、小林先生に「会社を辞めますので内弟子にしてください。」とお願いしました。先生から即答「いいよ!いつから?」と云う返事をいただきました。
それから急いで辞表の準備です。辞表の理由は「一身上の都合」と記しましたが、社長には、可愛がっていただいていましたので、正直に大学時代の合気道を本格的にやりたいので辞めたいと伝えました。しかし社長からは「昼間の時間がある時に、いつでも来て少しでも手伝ってほしい」と、有難いお言葉をいただきました。
昭和48年1月初め、小林先生のご自宅がある「合気道小平道場」の2階の1室に住込みました。先生のご自宅は1階が生活スペースと道場です。2階はアパートになっており、先生ご家族の部屋とは別に3部屋あります。その1部屋(6畳)が私の住まいです。トイレは共同ですが各部屋には、炊事ができる水場とガスコンロ付きです。
内弟子と言っても、もちろん小林先生に部屋代と指導料をお支払いしての居候のような生活です。それまでの休日もないようなサラリーマン生活を過ごしていましたので、2年間ぐらいは働かなくても大丈夫ぐらいの貯えがありました。
当時の小林道場は、小平道場と埼玉県の所沢道場の2道場だけです。所沢道場には明大合気道部の2年後輩の鹿内一民君(現:ブラジル合気会師範)が、すでに住込んでいました。2道場の稽古時間は、それぞれ子どもクラスが週3回、学生クラス・一般クラスが日曜日と平日の夕方に週2回、そして朝稽古が週2回、稽古日が重ならないように組んであり、月曜日だけがお休みです。
住込んだ翌日から、小林先生のご指導のもと「合気道三昧」の生活が始まりました。私は当時、自転車に乗れませんでした。朝稽古で所沢道場に通うには5時起床です。小平駅まで徒歩で15分、自転車に乗れば小平駅まで5分です。小林先生から「直ぐに自転車に乗れるように!」と厳命があり、早速、保子奥様の自転車(ママチャリ)をお借りして練習を始めました。1週間ほどすると、やっと乗れるようになりました。しかし、そのころにはお借りした奥様の自転車はボコボコになっていました。これが内弟子最初の修業と言えます。
当時の小平道場は、すでに創立して4年。子どもクラス、学生クラス、一般クラスの会員は多くいました。有段者は、まだ少なかったですが、昇段を目指す会員が多く活気づいていました。所沢道場は、開設して2ヵ月で、子どもクラスも一般クラスも、ごく僅かでした。誰も稽古人が来なく、小林先生、鹿内君、私だけで稽古する日が続き、私たち内弟子2人にとって、小林先生を独占できる最高な時間でありました。
小平道場の夜稽古が終われば、先生と一緒にお風呂に入ります。食事は保子奥様手作りです。もちろん、食前にビールで乾杯。稽古後・入浴後の一杯は最高です。小林先生のひと言「小林道場の内弟子は、晩酌付きだ!」と。
前年ごろから、ブルース・リーのカンフー映画がヒットして、日本にも武道ブームが起こり始めました。小林先生がよく言われる「人の運・地の運・時の運」、合気道を広めるグッドチャンス・時の運がやってきたのです。春を迎えるころには、小平道場も所沢道場も入会者が増えるようになり、稽古も活気づいてきました。私の生活も、両道場での稽古と前に勤めていた出版社での昼間のアルバイトで休みのない毎日でしたが、充実した日々は楽しいものでした。
昭和48年10月に川崎元住吉道場が、小林道場の第3番目の道場として開設が決まりました。道場開きを間近に控えた9月、先生から「五十嵐、これから小林道場も忙しくなる。合気道のプロにならないか?」というお話をいただきました。私は即答「よろしくお願いいたします」と。また同時に、先生から11月の本部道場昇段審査で参段の審査を受けなさいと言われました。
10月から小林道場のプロの指導員としてスタート。と同時に先生からアパートの部屋代は不要のお言葉をいただきました。さらに指導料もいただけるようになりました。その瞬間からプロの指導者になりました。
【合気道の専門家になる】
11月中旬、内弟子の鹿内君、私、そして長野県松本で指導する埼玉大学合気道部ОBの石垣晴夫さんの3名が本部道場で参段昇段審査に臨みました。多少のアクシデントがありましたが、合格しました。
参段昇段後、小林先生から専門家の道へ進むにあたって、2つのご指導をいただきました。1つは「将来、合気道だけでは生活するのは難しいだろうから、副業として鍼灸の勉強をしなさい」と、2つ目は「プロの指導者となるには、合気道本部道場での稽古も必要だから通いなさい」というものでした。
【合気道本部道場での稽古】
小林先生の勧めもあり、昭和48年末から新宿の本部道場の火曜日と木曜日の朝稽古に通うようになりました。一番稽古のご指導は植芝吉祥丸先生。火曜日の二番稽古は山口清吾先生、木曜日の二番稽古は大澤喜三郎先生です。1ヵ月後ぐらいから、先生方から受けに使っていただけるようになりました。見るのと受けをとるのは大違いです。緊張感と、それぞれの先生から伝わる感覚は言葉にできないほどの感激と衝撃でした。特に吉祥丸先生にお声掛けをいただいた時の緊張感は「胸バクバク」ものでした。
本部道場の朝稽古の帰り際に「五十嵐君、こっちに入りなさい。美味しい梅干しがあるから食べて行きなさい。」と、事務所の中から声をかけていただいたことがありました。有名な紀州の南高梅で一粒がとても大きくて美味しかったです。また「五十嵐君、頑張っているね!合気道の面白さが分かるのは60歳過ぎからだよ!」との言葉もいただいたのも、その頃だったと思います。
本部道場の朝稽古は、昭和55年(1980)夏に父が亡くなり、所沢から横浜の実家へ転居するまでの7年間続きました。その間、ご指導いただいた大澤先生、山口先生のことを振り返ってみます。
〇 大澤喜三郎先生(1910~1991)
大澤先生のご指導の時、先生に技の受けを取っていただく時があります。そんな時、「力を抜きなさい。こんな年寄りに力を入れてどうするの!」と、やさしいお爺ちゃんという感じで指導してくださいました。流れるようなゆっくりとした動きと、何とも言い難い和やかで温かな雰囲気が何とも言えないものでした。ご子息の勇人先生が、本部道場の内弟子になられたばかりの時、先生から「五十嵐さんは、小林道場の番頭さんだから、稽古しなさい。」と言われ、稽古の相手を務めさせていただきました。大澤先生は、本部道場大番頭として吉祥丸先生を支えられた先生です。亡くなられた時に、十段位に列せられました。今は、勇人先生が大番頭として三代道主守央先生を支えていらっしゃいます。大澤先生は、昭和58年2月の橋本道場・道場開き式に合気道本部道場を代表して出席してくださいました。有難うございました。
(五十嵐独り言)私も、大澤先生に「こんな年寄りに力を入れてどうするの!」と言われた年齢になりました。同様の言葉を五十嵐道場の皆様にも「こんな年寄りに力を入れてどうするの!」と、シッカリと言いたいです‼
〇 山口清吾先生(1924~1996)
柔らかくソフトな稽古で際立ったのが山口清吾先生です。先生の指導稽古に通うようになって、しばらくすると、受けに使っていただくようになりました。見るのと受けを取るのと大違い!身体全身をしなやかなバネのように使い中心を崩され投げられて驚いたことが数多くありました。稽古後に、先生の袴をたたませていただくようになり、高段者更衣室にお届けすると色々とお話をさせていただきました。また先生は、稽古後に本部道場近くの喫茶店でコーヒーを飲まれるのが日課になっており、時々ご一緒させていただきました。その時にも、技はこうやると良いよ、とか。「最近、一教で抑える時に、小指の方を上に向けると良いのかな、と考えているんだ」と、私のような若いものにも手ぶり身振りで教えてくださいました。もちろん、毎回のコーヒー代は、先生のおごりでした。
(五十嵐独り言)本部道場の池田テル先生から、ある朝「山口先生が亡くなりました。五十嵐さんは、先生の稽古によく出ていたから連絡しますね!」と電話をいただきました。つい最近、先生の稽古に出たばかりでした。翌日から、北欧での指導が決まっていて残念ながら先生のご葬儀には参列できませんでした。先生には、最後まで“力を抜きなさい!”と言われていました。すでに先生がお亡くなりになった年齢を迎えていますが、相も変わらず力ずくの稽古をしています。まだまだ未熟です。長年のご指導有難うございました。
【本部道場住込み稽古】
当時の小林道場内弟子には、本部道場に1~2ヵ月間の住込み稽古制度があり、私も51年(1976)春、4階稽古衣置き場裏の小部屋に、約2ヵ月住込みました。1階には宮本鶴蔵先生、4階道場の小部屋には柴田一郎先生が住込んでいました。稽古だけでなく、道主先生を始め本部道場の師範、指導員の先生方に顔を覚えてもらうこと、将来の指導者としての心構えを養うものでした。内弟子の海外派遣もそうですが、この制度も小林先生の発案です。今になって思うと、とても素晴らしいお考えであり感謝しかありません。
この2ヵ月の間、植芝吉祥丸先生のご指導の一番稽古で、現道主の守央先生と2度ほど稽古させていただきました。
【東洋鍼灸専門学校で、はり・きゅうの勉強】
49年2月「東洋鍼灸専門学校」の入学試験を受けました。勉強不足のため見事に不合格、当然です。翌年の2月、猛勉強をして受験、見事に合格しました。3月末にアルバイトで長年お世話になりました出版社を正式に退社しました。
「東洋鍼灸専門学校」は、西武新宿駅から徒歩10分、鬼王神社のそばにあり、本部道場からも徒歩10分です。授業は、月曜日から土曜日の午前10時から午後3時までです。小平道場、所沢道場、本部道場での朝稽古を終え、飛びだすように学校に向かいました。同校への通学期間は、3年間です。2年目の終りに国家試験「あんま・マッサージ・指圧師」の資格試験、3年生の終りには国家試験「鍼灸師」の資格試験があります。鍼、灸、あんま、マッサージ、指圧の実技の授業は緊張していましたが、机に向っての勉強は、さすがに我慢できず机に顔を伏せて眠り込むことが多く、先生やクラス委員には「五十嵐君は寝てばっかり!」とよく注意されました。3時に授業が終われば、大急ぎで指導道場に向かいます。
当時、所沢道場で一緒に稽古した福島県いわき市「合気道東胡塾」の忍山東師範が、当時のことを五十嵐道場20周年記念誌に、次のように述べています。「その当時、私は武道家の内弟子という過酷な環境に驚いたものでした。五十嵐先生も当時は若いので体力は十分でしたが、睡魔との闘いは大変でしたね。なのに、五十嵐先生からはつらいとかきついとかの言葉は、一言も聞いたことがありませんでした。正直私には絶対できないと思いました。」と。
53年3月「東洋鍼灸専門学校」を無事に卒業、あんま・マッサージ・指圧・鍼・灸師の国家資格試験も無事に合格しました。しかし、合気道で生活できない時のための副業として始めた鍼灸の勉強でしたが、今の今まで使うこともなく過ごすことができました。学んだ経絡やツボの知識は、合気道の稽古にも大いに役立つものであり、とても有意義な3年間の勉強でした。
【小林道場内弟子生活】
49年(1974)9月、小林道場4番目の八王子道場が開設、私が指導担当になりました。
同年の秋、小林道場では有名な「サンマ事件」が起こりました。小林先生は、秋の味覚のサンマが大好きです。また、先生は牛乳が大の苦手です。しかし、可笑しなことにミルクたっぷりのアイスクリームが大好きなのです。
小平道場での稽古後の夕食、先生の奥様の保子さんが準備した食卓には小林先生大好物の「サンマ」が。焼きたてたばかりのサンマは、私も大好きです。先生と私、そして短期住込みのY君が一緒に食卓を囲んでいました。Y君は、サンマのハラワタが苦手のようで残しました。すると先生は「その苦みがサンマの美味しいところだ!」と。それを聞いた保子奥様が、すぐに冷蔵庫から牛乳を出して、先生のご飯が盛られた茶碗に“ドボ・ドボ”とかけたのです。そして一言“あなただって、牛乳は苦手でしょう。これを食べられますか?”、“食べられないでしょう。無理を言ってはダメです!”と、Y君をカバってくれました。奥様の優しさに触れた瞬間であり、まさに「小林道場の女神様」です。しかし、私たち2人は先生のお顔を見ることもできず、顔をあげることなく素早く食事を済ませ一目散に2階の部屋に戻りました。
50年初頭、小林先生から「ブラジルの中谷師範から小林道場から指導員を5年間派遣して欲しいとの連絡が来ている。五十嵐か鹿内のどちらかを派遣したいので考えておくように」と。そのころには、私はすでに結婚を決めていました。鹿内君は、私が結婚をすることを知っていましたので、彼は「私が行きます」と即答。昭和50年(1975)夏、彼はブラジルに旅立ちました。
彼の契約は5年というものでしたが、現在も彼はブラジル合気会師範として、合気道の指導・普及に努めています。彼の派遣にともない、私は小平道場から所沢道場に移りました。しばらくたって届いた彼からの手紙に「勝たなくてもよいが、絶対に負けるな!」と、到着早々に中谷師範から言われた言葉が書いてありました。中谷師範は素手で拳銃を持っている暴漢を取押えたブラジルでも有名な武道家です。すごく深い意味のある言葉に一瞬、身が引締まりました。
51年2月、私は八王子道場会員の妻まち子と、小林先生ご夫妻のご媒酌で結婚しました。私の道場住込み内弟子生活は、小平道場に2年半、所沢道場に7ヵ月、都合3年1ヵ月と長期にわたりました。
結婚を機に所沢道場から徒歩10分ほどのアパートに新居を構えましたが、毎日の稽古・指導と鍼灸学校への通学で、自宅にいる時間は本当に寝るだけのような状態でした。
そんな中、スウェーデン、フィンランド両合気会の指導者要請により、私の北欧派遣が53年春から1年間と決まりました。私は、すでに結婚していましたので、北欧には単身赴任です。
50年代中ごろには、ますます小林道場は大きくなり、道場数も多くなりました。そして内弟子も畑山憲吾さん、多田和城さん、堀越春芳さん、田村恒雄さん、長谷川弘幸さん、そして明大生の戸田祐滋さん、武道大生の岡田治さんと大変賑やかになってきました。
□ 恩師・小林保雄先生の教え
私が歩んできた60年以上にわたる合気道人生の中で、第一番の恩師は小林保雄先生です。小林先生との出会いが無ければ当然、現在の私はいません。
20代の小林先生の本部道場での稽古と指導は、結構荒くエネルギッシュで「本部道場の荒法師」と言われていたと、本部道場の先輩会員から聞いたことがありました。
小林先生は、本部道場から指導に派遣された道場でラフな指導により、怪我人を出して数回、救急車を呼んだこともあったようです。そんなラフな指導を見かねた派遣先の道場の責任者が、吉祥丸本部道場長に「小林先生から、もう少し優しい指導者に代えて欲しい」という電話連絡も度々あったと聞きました。今の先生からは想像もできないことです。
先生は、小学生の時から講道館で柔道を始め、明治大学入学とともに合気道本部道場で合気道の稽古を、開祖植芝盛平先生、二代道主吉祥丸先生のもとで始め、大学卒業後に本部道場の指導者になりました。当時の若手の内弟子は、後年に海外に派遣され大いに合気道を世界に広めた先生方です。
小林先生は、植芝盛平先生が亡くなられた昭和44年春に、東京小平市に「小林道場」を開設、また昭和47年秋に埼玉県所沢市に「所沢小林道場」を開設しました。と同時に合気会本部道場を退職し、小林道場での指導に専念するようになりました。開祖植芝盛平翁先生、二代道主吉祥丸先生を敬愛し、指導する技は基本技が中心です。以前「海外版合気ジャーナル」に「小林先生の技のスタイルはクラシック」と紹介されていました。「言い得て妙」素晴らしい紹介文です。先生の実家は千代田区九段上の靖国神社の前にあり、学生時代は毎朝、皇居マラソンと竹橋から九段上まで、うさぎ跳びで鍛えていたと聞いています。先生の太ももは競輪選手並みです。
先生は、もともと無口で、おしゃべりがどちらかというと苦手な先生です。でもとても勉強家であり読書家です。小平道場に住込んでいた時は、私が先生のお住まいの掃除をしていました。先生のお部屋の本棚には、多くの本が積み上げられていました。本を取ってめくってみると、赤線が引いてあったり、付箋が貼ってあるところが多くありました。
また、気になる言葉は、さらにカードに記入・保存し整理されていました。小林先生も組織が大きくなるにつれ文章を書くこと、ご挨拶することが多くなりました。そんな時のために、参考になる言葉を書き留めておかれたのかなと思っています。
先生の指導は、1つの技を座技、半身半立、立技と繰返す稽古です。近年の演武大会で見られるような華麗な技を教えていただいたことはありません。「演武会のための演武の稽古は必要ない!」が先生の教えでした。また「翁先生は、演武中に踵が浮くことはなく、残心がとても美しかった」と言われ、私たちに姿勢・残心の乱れがあると注意を受けました。先生の鍛え上げた下半身から繰り出される技は、真似のできないところも多くありました。しかし「学ぶということは真似ること!」とあるように稽古するだけです。そして、本部道場や他の先生の道場で稽古して、指導者の先生に「君の動きは、小林先生にそっくりだね!」と言っていただける言葉が何よりの喜びでした。
先生は時間があれば本部道場に通うことや、他の先生方の道場へ行くこと、他の武道の稽古をすることも勧めていました。一般的に武道の先生は、弟子が他の武道や他の先生の道場に行くことを嫌う先生が多くいらっしゃいますが、小林先生は、そういうところがおおらかです。
私が岩間道場で剣・杖の技を習い、所沢道場で稽古していますと、先生が見ていて「斎藤先生の剣・杖の技は素晴らしい。小林道場の稽古にも取りいれよう」と、間もなく小林道場の審査技にも加わるようになりました。
昭和50年夏、先生は内弟子第一号の鹿内一民君のブラジル派遣に同行しました。その帰国途中にアメリカに立寄り、すでにアメリカで合気道指導普及に努めていた山田嘉光先生や五月女貢先生の道場で指導をしました。その時に強く感じたのが「合気道を広めるのは、これからは海外だ!」と。そして、それからは翌年の51年にはアジア、52年にはヨーロッパに合気道の指導に出かけました。その縁で、翌53年の私の北欧派遣が決められたのです。それ以後の小林道場の国内外での発展ぶりを見ると、先生の先見の明は見事に当たったといえます。
昭和52年ごろと記憶していますが、毎週金曜日の朝稽古後に先生から内弟子だけに対する特別稽古が3ヵ月ほど続きました。内弟子を海外に出すにあたっての特別の思いが先生にはあったのではと思っています。長年にわたって国内外での指導経験で築いてきた技を伝授いただきました。また質疑応答で出来ない技、難しい技などの術理や要点を教えていただきました。今、思うと貴重な時間であり、とても有意義な時間でした。その時に教わった技についての細かい術理と身体操法は、後の海外指導はもちろん、今でも大いに役立たせていただいています。
小林先生が偉大なのは、内弟子だった者すべてに自分の城(道場)を持てるまで指導してくださったことです。私と同時期に内弟子だった畑山憲吾師範(八段)は埼玉県狭山市に、堀越春芳師範(八段)は埼玉県春日部に、長谷川弘幸師範(七段)は茨城県取手市に自分の城をもって指導活躍しています。
2年間と思って始めた内弟子生活は、あまりにも居心地が良く気負うこともなく専門家にまでなってしまいました。先生のご自宅の小平道場に2年半、所沢道場に7ヵ月の間、住込んで稽古をさせていただきました。これも小林先生ご夫妻の愛情と温かいご指導の賜物と感謝の言葉しかありません。
今も、先生にお会いする度に、体調をお聞きすると「元気・元気、どこも悪いところは無い!」という、いつものお言葉が返ってきます。先生の「元気・元気!」の言葉を聞くと、こちらも元気をもらいます。先生は、今でも小平道場を中心に指導され「受身をしない合気道は合気道ではない」と言って、会員の相手をして受身を取っていらっしゃいます。今は、元気な小林先生の背中を追いかけるのも、今はなかなか大変です。私にとって、これからも大きな目標であり、これからの合気道人生にも、とても大切な先生です。
令和6年9月に、「小林保雄先生道歴70年・米寿88歳・小林道場創立55周年記念祝賀会」が、10月に記念合宿が開催されます。昭和20年代後半から40年代初頭まで、合気会本部道場で開祖植芝盛平先生、二代道主植芝吉祥丸先生のご指導を受け、本部道場指導部師範としてご活躍された先生は、今は94歳の多田宏先生と小林保雄先生だけとなりました。
□ ご指導いただいた先生方の思い出
昭和39年(1964)4月、明治大学合気道部で稽古を始めてから、令和6年(2014)3月までの61年間で多くの先生方にご指導をいただきました。私の記憶と記録に強烈に印象に残る先生方について記述してみたいと思います。
【合気会本部道場】
合気道部現役当時の本部の先生方は、植芝吉祥丸先生、師範部長・藤平光一先生、古参師範の大澤喜三郎先生、師範の山口清吾先生、有川定輝先生。そして若手指導員の小林保雄先生、五月女貢先生、千葉和雄先生、金井満也先生、藤平明先生、など戦後の本部道場を盛立てた一騎当千、それぞれ個性豊かでカリスマ性のある先生方と言えます。また、当時の若手の先生方のほとんどは、昭和40年前半には海外指導に派遣された方々でした。学生時代は大学での稽古が無い時や、小林先生の指導日に本部道場で稽古しました。本部道場の稽古法は、今でもそうですが1時間の間、稽古相手を替えないで行います。良い人に当たった時は「幸運・ラッキー」の1時間。強い人や乱暴な人に当たったら「不運・アンラッキー」の1時間、地獄のようなものでした。でも、どちらも良い稽古にはなりました。しかし当時から小林先生の指導時間は、できるだけ技が替わる度に、稽古相手を替える指導法を取っていました。それが本部道場の若手指導員の中でも、小林先生の人気があった理由の一つだったと思います。
二代道主 植芝吉祥丸先生(1921~1999)
学生当時の本部道場長の植芝吉祥丸先生は、細見の身体ながら優雅に力強く捌かれる姿は別格でした。当時は植芝盛平先生のことは翁先生と、吉祥丸先生のことは若先生と呼んでいました。明治大学合気道部の段審査は、本部道場で吉祥丸先生が審査長で、小林保雄先生が出題する審査員でした。審査後に吉祥丸先生から「気合は必要ない。もう少し静かにやりなさい!」と注意を受けたことを鮮明に覚えています。大学の稽古では、「声が小さい!気が出ていない!気合が小さい!」と上級生に指導されていたので、攻撃する時、技をかける時、投げる時など自然(ある時は不自然)に大きな声で気合を入れていました。
当時は、全国学生演武大会で時代劇の殺陣に出てくるような見事な演武を披露する大学がありました。大会後の先生の総評に「合気道は見世物ではありません。しっかりと日頃の稽古の成果を発表してください」と、お叱りの言葉をいただいたことを鮮明に覚えています。
私は、小林道場の事務を担当していた時、また明治大学合気道部コーチ・監督を務めていた時、もちろん五十嵐道場長としても各周年行事の度毎に、本部道場に道主植芝吉祥丸先生をお訪ねしました。いつも道場2階の道主のお部屋か、ご自宅で応対してくださいました。まだ合気道指導者としては駆け出しの若い時、ある周年行事開催にあたり、吉祥丸先生に記念誌の巻頭のご挨拶文と祝賀会へのご出席のお願いに伺いました。いつものように優しい眼差しで案内状をご覧になっていました。そしてひと言「五十嵐君、この書面では道主としては出席できません」と。その瞬間、私は背筋がピーンと伸び、かつ全身から冷や汗がビッショリと湧き出したのを感じました。継いで、先生は優しい眼差しと口調を変えることなく「五十嵐君、ここをこのように書き換えて持って来なさい」と優しくご指導くださいました。私の書類の不備を咎めるのではなく、先生から心のこもった優しいご指導をいただき感謝の心でいっぱいになりました。と同時に、吉祥丸先生への敬慕の念は一層大きくなりました。「間違いを厳しく叱責しながら導く、優しく教え諭して導く」の違いを学ばせていただきました。それから数十年が経ちましたが、未だにそのような境地には至らず、未熟さを痛感しています。
吉祥丸先生のご指導は、家元・宗家として基本の技が中心です。本部道場の朝の一番稽古のご指導を受けている時や演武大会での演武を拝見していると“何かホッと”とした温かい気持ちになります。
吉祥丸先生とは、平成2年(1989)台湾の呉金龍先生の「中華民国合気道振興会」の記念行事に同行させていただきました。小林道場から80名近い参加者があり、私が事務方の責任者を務めていましたので、先生の身近にお仕えする機会も多く、3泊という短い期間でしたが、緊張とともに良い経験をさせていただきました。
また、本部道場主催の千葉県岩井、埼玉県秩父で開催された「吉祥丸道主講習会」に参加させていただきご指導をいただきました。
師範部長 藤平光一先生(1920~2011)
藤平先生は、小柄でズングリ・ムックリ、太い手首から肘を通り越していきなり肩と感じるほど、手の長さが短く感じられるくらい太くて持つと手が回らないくらいありました。「気が身体を動かす」という指導理念で、気を重視した分かりやすい説明ですが、分かったつもりでも実際には難しいものでした。「曲がらない腕」「持ち上がらない身体」など、気の入った統一体の強さを指導していました。「曲がらない腕」は、最も記憶に残っているもので、先生の説明では「消防ホースは、放水しないときは伸ばして丸めてしまっておくだろう!しかし、いざ火事となりホースから水が一気に放水されると、そのホースは固くなり踏んでも潰れないだろう!その水の勢いが《氣》だ!」と言って、稽古人同士でよく実験したものでした。先生の腕は太くて短くて、さらに気の充満しているカチンカチンの腕は二人が掛かって曲げようとしてもびくりともしません。
ドイツの浅井勝昭先生のところに伺った時に、この「曲がらない腕」について以下の面白いエピソードをお聞きしました。
≪浅井先生:藤平先生の「曲がらない腕」は、初めて合気道を紹介するときに大いに役立った。ほぼ全員が興味を持ち、さらに試させてみると「気」が入った状態と、入っていない時の違いに関心を示し、合気道を理解してもらう一助となった。しかし、ある時に「私にも先生の腕を曲げさせてください!」と言って熊のような大男が現れ「曲がらない腕」に挑戦してきたそうです。先生は、もちろん自信満々「はい、どうぞ」。しかし、その大男の力は想像を絶するもので、先生の肘が悲鳴を上げ始めましたが、どうにか持ちこたえたそうです。しかし、その後に肘を見てみると骨がずれて少し出っ張っていたそうです。先生が、その男のことを知人に聞いてみると、五寸釘や細めの鉄棒を簡単に曲げたり・伸ばしたりすることができる大力持ちだったそうです。先生の肘を見せてもらいました。確かに骨が肘の外側に少し出ていました。そして、その後の一言が印象に残っています。『五十嵐も説明の時にやるだろうが、今度やる時には「曲がらない腕」ではなく、「曲がりづらい腕」と言った方が良いぞ!』と有難い助言をいただきました。≫
藤平先生から教わった気の使い方、気のおき方など、今になって大きな力となっています。アメリカで、プロレスラーや柔道チャンピオンと闘ったこともあり、また一時、プロレスの力道山と闘わせるという話も出ていたぐらいの強い先生でした。翁先生が亡くなられて、しばらくして「心身統一合気道(気の研究会)」を創立し独立されました。最も合気道の技で影響を受けた先生のお一人です。
「曲がらない手」について記している時に、どう出版発行の季刊誌「道(以前の誌名・合気ニュース)」2018年4月春号に、宇城憲治先生「連載42回・身体の時間を変化させよ--そして、人間に秘められた神秘力を引き出せ--」の中に、藤平先生が指導されていた「曲がらない手」に通じる面白い内容がありましたので下記に紹介します。宇城先生が執筆される「気」についての多くの書が、どう出版から出版されています。興味のある方は是非お読みください。
≪宇城先生:水道ホースを引いて蛇口をひねったらどうでしょうか。蛇口をひねって水が反対側から出るまでに相当な時間がかかります。しかしこの水道ホースの中が水で満たされていたら、瞬時に水は出てきます。このホースに水が入っていない状態を「身体の呼吸が止まっている状態」と言っています。逆に満たされている状態を「呼吸ができている状態」すなわち、身体が気で満たされている状態です。身体の呼吸が止まっている状態とは身体の呼吸が通っている状態とでは人間の活力やスピードが違ってきます。水道ホースに水がつまっていたら、すなわち「気」が満ちていたら、即「今」が出口に伝わるということです。しかしホースに水が入っていなければ時間がかかり「今」は変わりません。≫
藤平先生は、ホースの水が一気に放水される強い状態を「気が出ていると表現されています」。宇城先生は、ホースの中に水が入っていない時、満ちている時、出ていく時を時間差で表現されています。とても興味深い内容です。先達の先生方は、立っている姿がとても大きく感じました。また、私たちが先生方の手を持とうとした時、正面打・横面打で攻撃しようとする瞬間には、先生方はすでに統一体が出来上がっている状態になっており、攻撃する者はすでにコントロールされた状態だったのだろうと思います。
岩間道場 斎藤守弘先生(1928~2002)
「岩間スタイル・斎藤流」で有名な斎藤先生のことは、現役時代は知りませんでした。斎藤先生は昭和30年代に本部道場の日曜稽古を指導していました。小林先生は、本部道場で、また開祖盛平先生のお供で岩間を訪れた時に、斎藤先生のご指導を受けたと聞いています。大学の現役時代、小林先生も剣・杖の技を時々ですが指導してくださいました。
昭和45年以降、菅原鉄孝先生の指導を受けるようになりました。その当時、ちょうど菅原先生は、岩間の斎藤守弘先生の『合気道 剣・杖・体術の理合』全5巻を作成中で、編集のお手伝いを少ししました。菅原先生のお供で斎藤先生の写真撮影やインタビューのお手伝いのために岩間道場を訪れました。私にとって、間近に斎藤先生の技に触れ、お話を聞くことができ大変貴重な時間でした。その後も1泊2日の菅原道場岩間合宿に参加し稽古しました。また、私個人も2~3泊で道場に泊まり込みで稽古をお願いしたことも数回ありました。
斎藤先生はまだ40代半ば、身体も大きく元気な斎藤先生の豪快な基本体術稽古、剣・杖を使った技、組太刀・組杖のご指導に感銘を受けました。先生のご指導は、始めに片手取り転換、片手両手取り(諸手取り)呼吸法から入ります。この2つの技の指導の時は、必ず参加者の一人ずつの手を取って教えてくださいました。岩間道場では持技・取技はしっかり、力いっぱい持って行います。また、打突技は正確に力強く打つ、というように「固い稽古」が中心です。技はゆっくりと行い、初心者が学ぶような基本の技で相手を投げる、制する指導を中心に行っていました。「Slow is smooth, smooth is fast」の言葉どおりのご指導でした。
小林保雄先生は「盛平翁先生は剣・杖の指導も気の向くままに振られ、次の稽古の時には全く別の型。これを整理・統合して稽古する人にわかりやすく型に整理されたのは斎藤先生の才能と努力です。」と、また「今、海外での講習会参加者は必ず剣・杖を持参します。これは斎藤先生の大きな功績だと思います。」と言っています。
私の初となった北欧での海外指導の時、小林先生の教えはもちろんのことですが、斎藤先生の教え方がとても参考になりました。有難うございました。
≪最近、合気道本部道場から全日本合気道演武大会では、剣・杖を使った演武を遠慮するようにという通達があるようになりました。以前、吉祥丸先生が全日本演武大会で、守央先生を受けに「組太刀1本目」を演武されました。吉祥丸先生は、まだ小学生の時に剣道を、そして盛平翁先生が鹿島神刀流の吉川宗家をお招きして特別稽古をしたと記録が残っています。鹿島神刀流の組太刀に翁先生が合気を取入れたとあります。また、吉祥丸先生の合気道教本にも「組剣」として紹介されています。フランスで合気道の普及に尽力された田村信喜先生は著書に「体術と武器技は合気道の両輪である」と記しています。以前より「合気道の動きは剣の捌きからきている!」と、よく聞きますが、最近は剣・杖技をご指導くださる先生方が少なくなったのは大変残念です!≫
多田 宏先生(1929~)
先生は、早稲田大学空手部のご出身で、私の現役時代はすでにイタリアに派遣され、直接の指導は受けたことはありません。しかし、小林道場の内弟子時代に、多田先生がイタリアに指導に行かれた留守の間の1ヵ月間、開設されたばかりの吉祥寺・月窓寺道場の指導をさせていただきました。その時、事前に月窓寺道場で多田先生から指導方法、呼吸法など2回ほど特別に講習を受けました。そして本部道場の多田先生の指導時間に1日、先生の受けを取らせていただきました。呼吸を大事にされる先生でした。
この時に教わった呼吸法が、この後に北欧に派遣された時、そして今も役に立っています。とにかく力の強い先生でした。私の師である小林保雄先生は柔道出身者です。小林先生の技は、うさぎ跳びやマラソンで鍛えた下半身から繰り出される大きな捌きが特徴です。しかし、多田先生の技は上半身から繰り出されるとてつもないパワーで吹っ飛ばされるという感じでした。小林先生のお話でも、本部道場にある太くて重い素振り用木刀を思うままに縦横に素振りしピタッと止めていたのは多田先生だけだったと言われていました。また、ドイツの浅井勝昭先生が、「私を、正面打第一教の表で頭から落としたのは、多田先生だけだった。」と言っていました。
先生に「袴をたたませてください。」と言っても「私がたたみます。」との返事。また、「カバンを持ちます。」と言っても「これは私が持ちます。」との返事。キッチリしていらっしゃる先生でした。カバンを持つ時もトレーニングを兼ねるかのようにカバンを身体から離して持って歩くという徹底ぶりに驚きとともに感心しました。イタリアから帰国された時に、妻のまち子と吉祥寺の高級レストランにお招きいただきご馳走になりました。
現在は94歳。まだまだ現役の先生です。現道主も「多田先生は別格。バケモノだ!」と言っておられました。私も、多田先生のように94歳を過ぎても、元気に合気道を楽しめたら良いなと思っています。
白田林二郎先生(1912~1993)
白田先生は、開祖盛平先生の戦前のお弟子さんのお一人で、全日本合気道演武大会でのお姿しか見たことがありませんでした。が、30年ほど前だと思いますが、明大合気道部後輩の追分拓哉君(福島武道館館長・現七段)から「五十嵐先輩が、前から指導を受けたいと言っていた白田先生の週末講習会を福島でやりますから参加しませんか?」という連絡をもらいました。憧れの先生のお一人です。喜んで参加させてもらいました。土・日曜日の二日間の講習会でした。追分君が「小林先生のお弟子さんです。」と、先生に紹介してくれました。私のような若輩者にも「小林先生は素晴らしい先生です。先生のもとでしっかりと稽古をしてください。」と、丁寧なご挨拶をいただき、かえって恐縮したことを思いだします。講習会では基本技の指導が中心でしたが、「これが翁先生の技か!」と思わせる力強くかつ流れるような技を見せてくださいました。また、年齢を感じさせない動きと立ち姿に感動を覚えました。稽古後、宿泊先の温泉旅館でご一緒に露天風呂に入りました。80歳近くとは思えないほど筋骨隆々、特に太ももがしっかりと締まっているのにびっくりしました。お酒を飲みながらとても楽しい時間を過ごしました。
白田林二郎先生の存在と人柄があってこそ、東北の合気道が一つにまとまり発展したと追分君から聞きました。私も、それを聞き大いに納得したものでした。それから数年後に他界されました。素晴らしいチャンスを与えてくれた追分君には今でも感謝しています。以下に、白田先生のエピソードを紹介します。
≪若い時は、太い首とがっちりした肩幅を持つ偉丈夫である。米俵(一俵=60kg)を両手に一つずつ持ち、拍子木のように打ち付けることが出来たという話もある。素性の分からない道場破りが来ると必ず白田が応対し、相手を徹底的にたたき伏せるのが常であったという。開祖について各地の指導にあたる。『皇武館の麒麟児』の異名をとった。≫
浅井勝昭先生(1942~)
浅井先生は、自宅が本部道場の目の前にあり小さい時から時々、盛平先生が指導していらっしゃるところを道場の窓から見ていたそうです。浅井先生曰く「爺さんが青鬼・赤鬼をポンポン投飛ばしていた!」と、「青鬼・赤鬼って誰ですか?」と聞いてみると、先生曰く「合気道を始めて、赤鬼は多田先生、青鬼は山口先生だった、と分かった!」と。お二人の先生には大変失礼ですが、納得できるネーミングと思いました。先生が合気会本部道場へ入門したのは13歳の時です。当時は、もちろん子どもクラスはなく小・中学生の稽古人はいなかったそうです。若手の指導員の先生方には「勝っちゃん、勝っちゃん!」と呼ばれ、良い意味でも悪い意味でも可愛がられたそうです。高校生のころには、稽古に来る大学合気道部の学生をいじめて喜んでいた、と聞いています。小林先生は、浅井先生が入門した後の入門と聞いています。浅井先生の方が合気道では少しだけ先輩と言えます。高校では初段、明治大学に入学した時には弐段を取得していました。本部道場では中・高校時代、小林先生に投げられてばっかりだったそうです。入学した大学は明治大学です。小林先生が合気道部の創始者で師範とは知らずガッカリしたそうです。大学でも、本部道場でも小林先生の厳しい稽古が続き、現役の時に参段に昇段し、卒業後まもなく四段に昇段されました。昇段のスピードは、一番若く更新しました。私が明治大学に入学した時には卒業していました。当時の上級生のお話だと「浅井先輩は学生チャンピオンだった!」という表現でした。小林先生が合気道部の監督・師範、浅井先生は助監督として稽古の指導に当たっていました。筋骨隆々、若くて元気な先輩でした。昭和40年(1965)10月、23歳で合気道本部道場から西ドイツへ派遣されました。
昭和54年(1979)6月、北欧での指導を終え、ドイツの浅井先生のもとを訪ね、ご自宅に4泊して稽古をお願いしました。道場は、デュセルドルフ市内にあり、大きくとても立派な合気道専門道場でした。道場には8キロぐらいの鉄棒が何本もありトレーニングの一環で鉄棒振りを行いました。先生が2本持って、私が1本持ってやっても先生の方が早く振り、回数も倍です。すごいパワーに驚きました。
先生はお酒が好きで、稽古後に自宅に戻ると先ずはウイスキーで乾杯です。ロックでもなく、水割りでもなく小さなグラスでストレート、一気に数杯たて続けに飲むのです。1~2杯はお付合いしましたが、鉄棒振り同様に完敗です。またその憩いの時に、ドイツでの合気道の普及を始めた頃の苦労話を聞くことができました。赴任早々、柔道連盟の加盟を勧められたが、合気道は柔道ではないということ、また柔道連盟の下部組織になることを嫌い断ったそうです。先生のお話によると、日本から海外に渡った武道の先生は、最初は武道で食えなくレストランやバーの用心棒で生活費を稼いでいた方も少なくはなかったそうです。浅井先生は、「俺だけは!」とプライドを持って、それだけは決してしたくないと強く思ったそうです。収入が少なくてもジャガイモだけを食べてしのいでいた時期もしばらくあったと聞きました。先達先生方の、このような忍耐・努力があってこそ、今日のように海外で「合気道の輪(和)」が、広がっていったのだろうと思うと感動を覚えたお言葉でした。
浅井先生には、帰国した時に橋本道場にお招きして2回ほど指導していただきました。いつも若い浅井先生に、その秘訣をお聞きしました。先生曰く「五十嵐には無理だろうな! 若い奥さんをもらうことだよ!?」と。今もドイツを中心にヨーロッパ各地で指導をしていらっしゃいます。
菅原鉄孝先生(1941~)
明治大学を卒業後、合気道部同期で神奈川県在住の飯森君が厚木市相武台にある「合気道神流会相生塾」で、阿部君が相模原市東林間「相模原武道学園」で、それぞれ合気道の稽古を続けていました。両道場の指導者は、合気会本部から担当師範として派遣された菅原鉄孝先生です。先生は本部道場で稽古を始め、その後に茨城県の岩間道場で内弟子として、植芝盛平先生、斎藤守弘先生の指導を受けた先生です。道場では「岩間流合気道」と言われる斎藤先生の体術、武器技を指導していました。私は体術も好きですが、先生が見せてくださった剣・杖技を見て感激しました。そして機会がある度に、先生の道場に通いました。当時、先生は「港リサーチ」という出版社を経営する社長でもありました。私は小林道場内弟子に入る前は、出版社で編集をやっていました。その当時、ちょうど先生は、岩間の斎藤守弘先生の『合気道 剣・杖・体術の理合』全5巻を作成中で、編集のお手伝いを少ししました。その後も菅原先生の道場主催の岩間合宿に参加しました。また、私自身も一人で岩間道場に寝泊まり稽古を数回しました。この時に斎藤先生、菅原先生から学んだ剣・杖、体術の技が、今でも私の合気道の中で息づいています。
菅原先生は、その後も植芝盛平翁先生の「武道練習・復刻版」、大竹利典先生の『無形文化財香取神道流』全3巻、東恩納盛男先生の『沖縄剛柔流空手道』全4巻を出版。他にも中国武術関係書籍と、ご自身で執筆された「合気道教本」など数多く出版しています。菅原先生には、岩間道場を始め、先生が他武道を始めると必ず「五十嵐さん、良いものだから一緒にやらないか!」とお誘いを受けました。そんなことで、私も香取神道流、沖縄剛柔流空手を、そして少しだけですが中国武術をかじることができました。
また20年ほど前ですが、米国の「古賀術」のロバート古賀先生をお呼びしての講習会の時は、菅原先生の道場で特別稽古の機会も作っていただきました。古賀先生は、養神館合気道を学んだ先生で、米国ロサンゼルス市警察で長く警察官を務め、退官後にご自身で創設した「古賀術」という柔術・逮捕術を米国で教えている現役の武道家です。その時にお聞きした「ロス市警の警察官の勤務中の死亡の60%は、自分の拳銃を奪われ撃たれたものだ!」という衝撃的なものでした。そのような実戦に裏打ちされた技は、見る者・体験する者全員が納得できるものでした。この時に教えていただいた技の一部は、私の身体の中にしっかりと残っています。
他武道の経験が、私の合気道にとって今は大変大きな財産です。小林先生が武道に目覚めさせてくれた先生なら、菅原先生は武術に目覚めさせてくれた先生と言えます。菅原先生のすごいのは、自分が良いと思ったことは武道に限らず、とことん納得するまで稽古・研究・探求していくバイタリティーが半端でないところです。そして得た物を、ご自身の武道・武術に取りいれていく努力と才能です。会社名を「菅原武道研究所」に改名し、武術の研究のみだけでなく、刀の研究・鉄の研究にも没頭し研究論文の発表もしています。先生は若い時から、武道の有識者から、「菅原先生は、一武道を築く人だ!」と言われていました。今は、海外から「菅原流合気道」という表現もされています。現在も日本国内をはじめ海外40ヵ国以上で指導しています。菅原先生の背中を追いかけるのが大変で、最近は正直なところ背中を見つめているだけで追いかけるのはあきらめています。
市村俊和先生(1942~)
市村先生は、高校時代から西尾昭二先生(合気会師範八段)に師事。昭和36年に東洋大学に入学、西尾先生と小林保雄先生の尽力を得て同大学に合気道部を創設し初代キャプテンとなりました。卒業後、合気道本部道場から北欧圏(スウェーデン、フィンランド、デンマーク)の指導者として派遣されました。小林先生が昭和52年(1977)年7月に北欧に指導に行かれた時、市村先生から小林先生にスウェーデン、フィンランドの指導員の要請がありました。翌年の春に、本部道場から派遣という形で、私が行くことになりました。しかし、労働ビザがなかなか取得できず、出発したのは翌年9月下旬でした。スウェーデン・ストックホルムに到着した夜、市村先生に初めてお会いしました。笑顔で出迎えていただいたこと、また無事に到着できたことを含めホッとしました。先生は北欧で、すでに10年以上指導しており英語、スウェーデン語、フィンランド語が堪能でした。
市村先生は、各武道や神道・仏教にも造詣が深く、合気道のほかにも居合道を指導していました。また、ご自身でも時間のある時に仏像を彫っていました。また、桜沢如一先生の食養の信奉者で正食を守り肉類は食べません。先生の正食は北欧の合気道会員にも広まっており肉食を断っている者が多くいました。先生の合気道を初めて見た時、入身・転換の捌きを大きく使い、北欧の大きな相手を上下に崩し見事に抑え投げる姿に感動しました。とともに、先生は長髪で、その髪をなびかせるように大きく捌いて演武をする姿は求道者・古武士を思わせ颯爽としていました。また、黒のスーツ三つ揃いを愛用しサングラスをかけると近寄りがたい存在感も出していました。先生からは「小林先生のお弟子さんだから、何も注文はありません。とにかく多くのみんなと稽古をしてください。」と優しくお声掛けをいただきました。また、道場や日常よく使う簡単なフィンランド語とスウェーデン語を「現地語で話すと、みんな喜ぶよ!」と言って発音しながらメモしてくれました。そして「頑張ってね!」と、さらに最後の一言が「北欧滞在中は、飲酒は禁止です!」というものでした。ドイツの浅井先生から「五十嵐は酒癖が悪いから注意してください!」という厳しい注文があったとのことです。
フィンランドで3か月、スウェーデンで6か月と都合9か月と短い間でしたが、市村先生には稽古・指導の仕方はもちろんのこと、日本人指導者として現地会員との接し方など多くの事を教えていただきました。
今、私が海外と、また各国の人たちと仲良く交流ができるのも、この時の市村先生の多くの教えがあってのことと深く感謝しています。私が北欧に滞在した十数年後にキリスト教に帰依し、今は宣教師として日本で活躍されています。
ロバート久保先生(ハワイ)と稲葉泰久先生(カナダ)
お二人の先生は五十嵐道場の記念行事には毎回、必ずお顔を見せてくださいました。しかし残念ながら、稲葉先生は平成21年(2009)に56歳の若さで、久保先生は平成28年(2016)に82歳で他界されました。
久保先生には、昭和56年(1981)、明治大学合気道部がハワイで合宿を行った時に初めてお会いしました。日系3世で日本語を少しだけ話すことができました。先生の第一印象は “一目でハワイアン”でした。人柄は明るく面倒見がよく、ハワイの合気道会員の皆様もとても尊敬していました。私より11歳年上で稽古や歓迎会を通じて、すぐに打ち解けました。先生は高校時代に柔道を、大学時代に合気道の稽古を始めました。1963年には、カイルア合気道クラブを創設して、高校で数学の先生として教鞭をとるかたわら合気道の指導・普及に努めました。退職後は、ハワイ合気会の重鎮として活躍されました。開祖・盛平先生は、昭和36年(1961)にハワイ合気会本部道場完成記念にホノルルを訪問され、日本とハワイに“銀の橋”をかけられました。また、二代道主吉祥丸先生は昭和38年(1963)に訪問されました。久保先生は、ハワイ合気会にとって歴史的な二つの行事に立合った数少ない先生と言えます。そして、平成19年(2007)のハワイ合気会50周年記念では、責任者のお一人として道主・植芝守央先生、本部道場長・植芝充央先生をお招きして盛大な祝賀会を開催しました。
平成25年(2013)6月、久保先生のカイルア合気道クラブ(田舎道場)が創立50周年を迎えました。その年は、五十嵐道場も30周年を迎えました。久保先生と相談してハワイ・ホノルルで合同で開催しようと決めました。日本からは60名、米国以外の海外から100名、ハワイを含めたアメリカから150名、総勢310名が参加者しました。ミラマーホテルで演武大会を、祝賀会はサーフライダーホテルで盛大に開催されました。
久保先生は平成27年(2015)に八段に昇段し、合気会鏡開き式の時には元気なお姿を見せてくださいました。しかし帰国後から急に体調を崩されたと聞きました。その年の6月、八段昇段パーティーがホノルルで開催されました。日本からは、小林保雄先生ご夫妻、私と家内のまち子が祝賀会に出席しました。その時には、お正月にお会いした時とは別人のように痩せられ車椅子での生活に変わっていました。
先生の生前中は、ハワイ、カナダでは義兄弟として大変お世話になりました。また、ご一緒した北欧、ポーランド、台湾、韓国での講習会では楽しい時間を過ごしました。有難うございました。
稲葉泰久先生は、横浜のケミカル関係の会社に勤める技術者で、私が指導する小林道場直轄・川崎元住吉道場に昭和49年(1974)に入門し稽古を始めました。彼は、持ち前の明るさと面倒見の良い人柄から、入門後すぐに人気者となりました。しばらくすると、日曜日も八王子道場にも稽古に通うようになりました。家内のまち子もその当時は八王子道場の会員でしたので仲良く稽古したものでした。元住吉道場では弐段まで昇段しました。熱心に稽古する中、彼からカナダへの移住の話を聞きました。若い時からの夢だったそうです。結婚したばかりの中での決断は固く、昭和55年(1980)夏に移住を決めました。出発までに少し時間がありましたので、カナダでも役に立つだろうと思い、彼に小林道場での住込み稽古を勧めました。所沢小林道場に2ヵ月間住込み集中稽古を積み参段を取得しました。8月に奥さんの佳子さんと生まれたばかりの裕也君とカナダ・カルガリーに出発しました。しばらくは仕事が見つからず大変だったそうですが、日本での会社の経験を買われ、カナダ石油に就職が決まり落ち着きましたとの連絡をもらいました。また同時に地元のコミニティーセンターに「カルガリー合気会」を創設して稽古を始めましたとも書いてありました。会社に勤めながら、鍼灸の勉強にも励み見事に資格を取得しました。やがて会社を辞め、大きな倉庫の一角を借り、表側に立派なクリニックと裏側に大きな道場を開設しました。
久保先生と稲葉先生には、平成15年(2003)の五十嵐道場創立20周年記念祝賀会・山中湖合宿に参加いただきました。この時から三人の関係が親密となってきました。同年9月の久保先生の「カイルア合気道クラブ創立40周年」に、稲葉先生と私とまち子が招待されハワイに行ってきました。そのパーティーの時に三人で「義兄弟の盃(?)」を交わし、より親密なお付き合いが始まりました。以後は、五十嵐道場、カイルア合気道クラブ、カルガリー合気会の周年行事の度ごとに交流を深めてきました。
平成20年(2008)夏、カルガリー合気会サマーキャンプが、カルガリー市近郊のケンモアで開催されました。久保先生と私が招待師範として指導を担当しました。その時、2010年開催予定のカルガリー合気会30周年について、稲葉先生は壮大な構想を語っていました。日本から道主・植芝守央先生、小林先生、荒井俊幸先生、そして私。海外からはハワイの久保先生、ドイツの浅井先生、等など。多くの先生方をお招きして盛大な講習会・演武大会・祝賀会の開催です。でも、講習会が終わって一カ月も経たない8月の終わりに倒れてしまいました。それから一時は意識が回復したと連絡がありましたが、翌年の1月に旅立ちました。
彼のわがままな遺言は、死後はカナディアンロッキーがよく見える丘の上で眠りたいということと、遺骨の一部を大好きなハワイの海に撒いて欲しいというものでした。今は、望み通りカナディアンロッキーを望めるカルガリー市郊外の丘の上に眠っています。
前記のように、五十嵐道場創立30周年と久保先生のカイルア合気道クラブ創立50周年を平成25年(2013)に、ハワイ・ホノルルで合同開催いたしました。そして、稲葉先生のもう一つの望みは、この時に叶えられました。ワイキキビーチから貸し切りのボートに、稲葉先生のご家族、小林先生ご夫妻、久保先生ご夫妻、私たち夫婦、そしてカルガリー合気会の会員、カイルア道場の会員の総勢30名が乗り込みワイキキの沖に出て、最後の稲葉先生とのお別れをしました。今は、長兄の久保先生と末弟の稲葉先生が亡くなり寂しい限りです。
横山 茂先生
私が小林道場内弟子当時に本部道場の朝稽古に通っていた時、横山先生は一番稽古と二番稽古の間に道場に現れ、残っている稽古人を手招きして投げてくれました。指で回されるように誘導され想像もしない角度に投げられるので慣れるまで大変でした。とても受身の練習になりました。横山先生(八段)は、渋谷に「横山自動車」を経営する社長さんで、会社の2階に「合気道渋谷道場」を開設し合気道の指導もされていました。この事とは別に、横山先生は富士登山でとても有名な先生でした。その当時には、すでに富士山を千回近く登っていました。小林先生もよくご存知の先生で、小林道場では夏の恒例行事として参加者を募って富士登山を行っていました。私も昭和48年(1973)に内弟子に入った年から当然のように参加しました。確か6~7回は登っていると思います。登山は8月の第一週と決まっていました。お昼過ぎに渋谷の横山道場に集合し、横山先生の会社のバスで富士山の5合目の定宿まで行きます。夜の8時ごろに到着し、美味しいお蕎麦をごちそうになり、真夜中の12時まで仮眠します。起きたら、いよいよ出発です。それぞれが懐中電灯で足元を照らしながら、先達の横山先生の「イーチ、ニー、サーン、シー、ゴー、ローク、シーチ、ハーチ」の腹から響く声に合わせ、一歩・一歩ゆっくり足を踏みしめながら進みます。途中、足早に登山していく人達が「なんだ。この番号をかけながら・ゆっくり進む集団は!」というようなバカにした顔をして通り過ぎていきます。ところがどっこい! 一時間後、二時間後にはバカにしていた集団が登山道のかたわらに座り込んでいました。思わず“ザマーミロ”と思いました。と同時に、先達の横山先生の呼吸力の強さに驚きました。みんなが少しでも疲れを見せると、道のかたわらに休ませ、ご持参のお茶葉を口に含むようにと渡してくれます。少しの休憩をとると、また先生の「イーチ、ニー、サーン、シー、ゴー、ローク、シーチ、ハーチ」の声に合わせ、一歩・一歩ゆっくり足を踏みしめながら登山がはじまります。ちょうど八合目か九合目に着いたころが日の出・ご来光の時間です。周りの景色が一辺に美しく変わる瞬間です。ご来光を仰いだら頂上も間近です。下山は須走道を滑り降ります。7~8時間かかった上り道も、帰りは2時間たらずで5合目の定宿に到着です。横山先生は、5合目から頂上まで「イーチ、ニー、サーン、シー、ゴー、ローク、シーチ、ハーチ」の番号を切らすこともなく、息を挙げることもなく休まずに出し続けています。横山先生にお聞きしたら「これは合気道の呼吸法だよ!」とのお答えでした。千回も登ったことのある先達のお言葉ですが、とても真似のできないことだと、その時は思いました。
しかし不思議なもので、一回目、二回目の登山の時に感じた高山病が、三回目の登山の時には高山病を感じなくなるのですから、身体の順応性というものは素晴らしいものです。5回目の登山の時、十数人いた参加者の一人が、とても具合が悪くなり登山ができなくなりました。その時、先生は「私はこの人を看病するので、五十嵐君はもう慣れているから、みんなを連れて頂上まで行ってください。」と、突然言われました。本当は自信などなかったのですが、「イーチ、ニー、サーン、シー、ゴー、ローク、シーチ、ハーチ」の番号をかけ、一歩・一歩ゆっくり足を踏みしめながら参加者一同を頂上まで無事に誘導し登ることができました。横山先生の言われる「呼吸力・呼吸法」の一端を理解することができました。この富士登山の経験が、私の大切な宝物の一つになりました。
【先達の先生方からの教え】
私の記録と記憶を振返りながら、諸先生の教えと思い出を記しました。しかし、まだまだ多くの先生方からの教えが残っています。整理して、またの機会に書き足したいと思います。
私が本部道場に通っていたころにご指導いただいた先生方の多くは、すでに亡くなられています。私もすでに、亡くなられた先生方の年齢を迎えています。未だに、先生方からご教示いただいた多くの教えが体現できないままになっています。今後も小林先生始め多くの先達先生方からの教えを、少しでも道場会員と共有すべく稽古していくのが、私に与えられた役目であり修行だと思っています。そして、それが少しでも皆様に伝えることができれば、先達の先生方へのご恩にも報えることだと思っています。
□ 海外指導について
私にとりまして、初めての海外の台湾、そして長期にわたった北欧での海外指導は、とても貴重な経験になりました。小林道場内弟子生活を含めて、現在の私の合気道の基礎・土台を作ってくれた大切な経験であり、素晴らしい思い出です。
【初めての海外/台湾】
昭和53年2月、明治大学合気道部監督・師範の小林保雄先生の「大学合気道部現役時代に合気道を通して海外経験」の発案により、創部20周年を記念して第一回海外合宿が台湾台北市で1週間行われました。
小林先生が引率責任者、私が副責任者として参加、現役を入れて総勢25名、合宿場所は台北市内大同区の双連小学校内にある台北市合気道会道場です。台湾の指導責任者は、台湾の合気道の父・李清南先生です。
小林先生は、近くのホテルに滞在。私と現役諸君の宿舎は、寝袋持参で同小学校の校庭にある演台の地下道場です。宴席で初めて台湾式乾杯を体験しました。当時の学生の宴席でも“乾杯・一気飲み”は一般的に行われていましたが、台湾式乾杯も“一気飲み”に変わりありません。しかし、台湾式乾杯は“随意(スーイ)”と言うまでは止めなく続きます。お酒と飲み会の好きな私にとっては最高なものでした。
この合宿で大変お世話になった呉金龍先生、陳必卿先生の両先生とは逝去されるまで長年にわたって弟のように可愛がっていただきました。その縁により、今も台湾の合気道の皆様とは仲良くお付合いをさせていただいています。
【初の海外指導/スウェーデン・フィンランド】
初の海外指導として、昭和53年9月から翌年5月まで、スウェーデン、フィンランドに滞在しました。指導責任者は市村俊和先生です。先生は、高校時代から西尾昭二先生(合気会師範八段)に師事。昭和36年に東洋大学に入学、西尾先生と小林保雄先生の尽力を得て同大学に合気道部を創設し初代キャプテンとなりました。卒業後、合気道本部道場から北欧圏(スウェーデン、フィンランド、デンマーク)の指導者として派遣されました。
小林先生が昭和52年7月に北欧に指導に訪れた時、市村先生から小林先生にスウェーデン、フィンランドの指導員の要請がありました。翌年の春に、私が行くことになりましたが、労働ビザがなかなか取得できず、出発できたのは9月25日でした。出発前に道主吉祥丸先生にご挨拶に伺い、派遣許可証をいただきました。
北欧両国から支払われた往復旅費は10万円。当時は、飛行機での旅はまだまだ高価なものでした。当時の若者のヨーロッパへの旅は、横浜から船でロシア・ナホトカ、そしてシベリア鉄道で1週間~10日間の鉄道の旅です。私は自費を加え、少し贅沢にフランス航空を利用して、パリ乗換えでスウェーデンに入ることを選びました。当時の往復航空券代は25万円でした。
「スウェーデン・ストックホルム」
成田からの機中で、以前に鹿内君からの手紙にあった中谷先生の言葉「勝たなくても良いが、絶対に負けるな!」という心構えを思い出し、初の海外指導に不安と緊張を覚えました。アメリカ・アンカレッジ、フランス・パリと飛行機を乗継いで、27日夕方にスウェーデン・ストックホルムに到着しました。市村俊和先生の温かい出迎えをいただき、初めての長旅を無事に終え、ホッとした瞬間でした。
翌日、スウェーデンの旧首都ウプサラ市で初の稽古をしました。そして29日の夜、先生と10数名のスウェーデン会員と、私の紹介を兼ねた講習会が開かれるフィンランドのトゥルク市に大型客船で向かいました。その船内で、先生から強烈な洗礼を受けました。
【サウナ・コンテスト:先生の発案により、船内においてサウナ競争が行われました。フィンランドはサウナ発祥の国です。家を建てる時には、先ずサウナからというお国柄です。サウナ競争とは、誰が一番長い時間サウナに入っていられるかを競うもので、フィンランドではとても一般的なものです。そしてその勝者は、強者であり尊敬もされます。先生より「合気道の先生は、何事にも強くなくてはならない。もし皆より早くサウナを出るようなら、この場から直ちに帰国してもらう。」という厳命です。本場のフィンランド・サウナは熱しられたヒーターの上に特殊な石を多く置いてあり、その上に勢いよく水をかけます。“ジュワー”という大きな音とともに熱しられた蒸気がサウナ室全体に広がり、身体全体に熱気が襲います。アッという間に全身から汗が吹き出します。呼吸も苦しくなってきます。どのぐらいの時間、我慢ができたのでしょうか? 最後まで争ったモリコさん(現:ノルウェー七段師範)がサウナを出た時には、ホッとしました。
少しの間をあけ、私もサウナから出てシャワー室に入ると、なんとサウナ競争をした人たちが待っていました。そして拍手です。この瞬間から、私は北欧の合気道の人々を大好きになりました。とともに、しっかりと稽古しなければとの強い決意を固めました】
「フィンランド・トゥルク市」
9月30日(土)、今日から週末2日間の講習会です。会場の中学校体育館には、百枚近い畳が敷かれ、フィンランド国中から参加した60名ほどが、正座して待っていました。黙想、そして正面の植芝盛平翁先生のお写真にご挨拶。私の海外での最初の指導時間がやってきました。準備運動に立ち上がった瞬間、フィンランド人の背の高さ、大きさに驚きました。後ろの壁が見えません。緊張した瞬間でした。そして、北欧に派遣される時、小林保雄先生からの教えを思い出しました。先生からは、「先ず黙想の後、ゆっくりと参加者の顔を見なさい。そして技の指導は座り技から始めること。そして次は後技をすると良い!」という教えです。座ってしまえば、座高の高い私と彼らとは、そんなに違いがありません。まして後技だと、彼らを正面から警戒する必要はありません。「素晴らしいアドバイス!」と感激です。2日間で、都合4回の稽古を先生と交替で指導。日曜日夕方に「私の紹介・講習会」は無事に終了しました。先生は夜の船でストックホルムにお帰りになりました。私は、会員の車でヘルシンキに向かいました。トゥルク市からヘルシンキ市までは170キロ、車で2時間です。1ヵ月間滞在する宿舎は、ヘルシンキ郊外の小さな町の2LDKのアパートで、若きカップルのペルッティさんマッルさんが提供してくれました。お二人とは、今も親しく交流が続いています。
「フィンランド・ヘルシンキ市」
フィンランドは「森と湖の国」として、日本でも知られています。人口は約600万人。首都ヘルシンキ市の人口は60万人弱です。ヘルシンキ市は、歴史を感じさせる多くの建築物、そして噂通り森と湖が多くみられる美しい古都です。フィンランドは長い間、スウェーデンやロシアに占領された経験があるため、ロシアに戦争で勝ったことがある日本・日本人をとても尊敬しています。フィンランドには「トウゴウ」と言うラベルが貼ってあるビールがありました。
フィンランドでの滞在日程は、ヘルシンキ市4週間、クオーピオ市1週間、トゥルク市2週間です。10月2日いよいよ一人での海外指導の生活が始まりました。
道場のあるオリンピック・スタジアムまで、住まいのアパートから市バスで約30分。バスも路線電車も日本の物より大きく長く、また福祉の国らしく乗降がとても楽になっています。乳母車や車椅子への対応もしっかりできています。また、素晴らしいと思ったのは、乳母車や車椅子の人が来ると、乗車している人がみんなで助け合って乗車と降車を助け合うことです。福祉への教育の違いを感じました。
フィンランド合気会は創立10年目に入り、有段者も弐段が2名、初段が10名ほど育っていました。フィンランド国内の道場・団体も、まだ数都市にあるぐらいです。ヘルシンキでは、オリンピック・スタジアム内の「明道館」というフィンランド国内でも最も古い武道クラブで稽古指導しました。道場は柔道、空手、合気道の稽古をしています。道場内には、植芝盛平翁先生、柔道の嘉納治五郎先生、空手道の船越義珍先生の写真が飾ってあります。スタジアム内には、道場を始め大小の体育館、サウナ室、温水プールが完備しており、さすが福祉の国と感激です。稽古は、火曜日から金曜日の夕方に2クラス、また滞在中の週末には講習会が組まれています。月曜日は休みですが、郊外の道場で指導を希望されると行くようにしていました。
ヘルシンキ市内には、1件だけ日本食レストラン「横浜」がありました。日本茶だけでも300円、みそ汁は500円です。でも日本食が恋しくなると10日に一回は訪れました。もちろん普段の食事はスーパーで食材を買い自炊です。住まいに近いスーパーで日本の醬油を見つけ、早速購入しました。味噌はさすがに売っていませんでした。
明道館の指導責任者のユハニ・ライシ弐段(現七段師範)は身体も大きく柔道経験者で基本もしっかりしている実力のある指導者です。他に、ボリエ・リンデ初段(現七段師範)、ハッリ・ラウティラ初段(現七段師範)などの有段者の他にも60名以上の会員がいました。そして今も親しく交流のあるユッカ・ヘルミネン(現七段師範)さんは、まだ白帯でした。ヘルシンキでの約1ヵ月の指導を無事に終えた時、責任者のユハニ弐段に「1ヵ月が早すぎました!」と嬉しい言葉をもらいました。
「フィンランド・クオーピオ市」
10月末、ヘルシンキに初雪が降る中、中央駅より初の列車旅で、次の指導地のクオーピオ市に向かいました。北に向かうにつれ車窓から見ると、もうすでに雪が積もっているところが見られます。クオーピオ市はヘルシンキから北に約600キロにあるフィンランド中央に位置する湖に囲まれた美しい小都市です。滞在先は、クオーピオ合気会の責任者マリアさんの自宅です。クオーピオでは、マリアさん手作りの料理を、ご主人と可愛い5歳の男の子と一緒にいただきました。
翌日の朝から稽古が始まりました。道場は市の中心から車で20分程の郊外にあり、大きな岩山全体をトンネルのようにくり貫いて作った核シェルターを兼ねた施設内にありました。さすがにロシアと国境を接しているフィンランドだと思いました。入口の扉は大きく厚みがあり、内部に入るまで幾重もの厳重な扉が続いています。内部はとても広く、平常時はコミユニティー施設としてミーティング会場や喫茶室、柔道場を始め種々の体育施設が完備しています。約1週間の稽古日程は、午前2回、夕方2回、休みは金曜日です。週末には講習会と演武大会が組まれていました。会員数は約40名。有段者はまだゼロで若い人たちが中心で1級2名、2級3名、3~4級が数名で、後は初心者でした。クオーピオ市は、冬のスポーツが盛んで、郊外にはスキーゲレンデやスキー・ジャンプ台があります。
「フィンランド・トゥルク市」
トゥルク市では、2週間の滞在です。トゥルク市はフィンランド第2の都市で、歴史を感じさせる街並みが美しく、市の中央を流れるアウラ川沿いには大きな教会があり、帆船や多くのヨットが停泊し散策するには最高な古都です。またレストランやホテルを兼ねた大きなボートも川沿いに停泊しています。港近くに建つトゥルク城は、正に中世を感じさせます。
道場は、最初に当地を訪れた時と同じ学校の体育館です。稽古は、木曜日が休み。月・水が午前1回、夜1回。火・金が夜2回。週末は1日中講習会です。結構ハードなスケジュールです。やはり有段者はいなく、責任者のペルティさん、マイユさんが1級、会員は50名ほど。今も親しく交流のあるペッテリ・シレニウス師範(七段)は当時14歳の中学生でした。
ペルティさん、マイユさんとは5週間ぶりの再会です。彼らとの会話で「1ヵ月前に、最初にお会いした時、五十嵐先生は英語が話せないのだと思っていました。でも先生は上手に英語が話せるのですね!」という話になり、思わず3人で大笑いです。
1ヵ月前に初めて北欧に来た時、英会話はできませんでした。大学を卒業して10年、英語に触れることは皆無でした。しかしヘルシンキ、クオーピオでの5週間で、英語力も上がったようで少しは会話ができるようになっていました。
11月19日、週末講習会を無事に終え、フィンランドでの稽古日程を無事に終了。夕方、ヘルシンキで講習会を終えた市村先生とトゥルク港で合流し、客船でスウェーデン・ストックホルムに向かいました。
「スウェーデン・ストックホルム市」
スウェーデンは、バイキングの国として日本では有名。人口は1000万人弱、首都のストックホルム市は人口100万人で北欧最大の大都市です。カール16世グスタフ王の王宮など歴史ある建造物が市内外にも多く残っています。王宮のあるガムラスタン(旧市街)には教会を始め中世からの建物が多く見ごたえのある観光場所です。ノーベル博物館も、この街にあります。
20日の早朝、ストックホルム港に無事に到着、スウェーデン合気会のスヴェン会長の出迎えを受けました。来年4月末まで滞在するストックホルム市郊外にあるセードラ合気会所属のバッティル氏のアパートで、会長から初めにパーソナル・ナンバーカードが渡されました。スウェーデンでは国民のすべてが誕生と同時に番号が付けられます。私も労働ビザで入国していますので当然、パーソナル・ナンバーが付くようになります。そして、カードを常に携帯しなければなりません。日本の現在のマイナンバー・カードのようなものです。私は滞在中に一度、ストックホルム中央駅で警官からパスポートとカードの提示を求められたことがあります。
住まいとなるバッティルさんのアパートは、市の中央にあるスルッセンのバスターミナルから約30分のオールミンゲ・セントラルにあります。町の中央には大きなスーパーマーケットがあり、2階はショッピングモールで多くの店が並んでいます。その大きなショッピングセンターを囲むように5階建てのアパートが数十棟と建っています。
ストックホルム滞在中は、自炊です。スーパーには米も醬油も売っています。またストックホルム中央駅の近くには「清光苑」という日本食料品があり、私の食卓でのレパートリーは増え始めました。
ストックホルムには、昭和54年4月末までの滞在です。稽古スケジュールはスウェーデン合気会所属のストックホルム合気会とセードラ合気会の2団体で稽古指導することになりました。月・水曜日がストックホルム合気会、火・金曜日にセードラ合気会、木曜日が休みです。また、週末には市村先生との合同講習会または私単独の講習会が組まれていました。
ストックホルム合気会は、創立15周年を迎えるスウェーデン国内でも合気道の歴史が最も古い団体で、有段者も多く、責任者のサーレン弐段、ローランド弐段を始め有段者も数多く、また会員も多い。セードラ合気会はそれに次いで歴史のある団体で責任者のレンナルト・ラルション初段を始め有段者・有級者・初心者も多くいます。会員のバッティルさん、マグナスさんとは、今も親しく交流が続いています。
セードラ合気会道場は郊外のファーシタ・スポーツホール内の柔道場です。また、ストックホルム合気会道場もコミュニティー施設内の合気道専門道場です。スウェーデンも福祉の国、各地域のコミュニティー施設の素晴らしさに驚きです。大小の体育館、柔道場、プール、ウエイト・トレーニング場、サウナ、他・・・。実に立派です。両道場での初の稽古を終え、会員の皆さんの素直な稽古態度、そして私から学ぼうという姿勢には感動さえ覚えました。私の指導場所には、若きレンナルト弐段、ウルバンさん、ウルフさんの3名が、いつもいました。現在も親しく交流が続くウルバンさん、ウルフさんは、当時は確か4級だったと思います。
11月も下旬に入るころから気温もマイナスの日が続き、雪の降る日が多くなり午後3時には薄暗くなり始め、5時には真っ暗です。北欧独特の長い冬がやってきました。
12月に入って間もなく、市村先生からストックホルム市内に合気道専門道場を開設する富田誠治先生(六段)を紹介していただきました。富田先生は、神奈川大学合気道部ご出身で、私より一期先輩です。大学卒業後、岩間道場の住込み内弟子として修業した後に派遣されました。先生の道場は、市内中央の高級住宅が並ぶ一角にありました。道場は広く立派で50畳以上、見学席や喫茶室などが完備する立派な道場でした。滞在中、富田先生の道場に数回お邪魔しました。その度ごとに、道場近くの高級日本レストラン「侍」でご馳走になりました。もちろん、富田先生のご努力によるのでしょうが、合気道でもお金持ちになれる可能性があることを知りました。また、スウェーデン国内で空手道を指導する清水先生、鈴木先生、剣道・居合道を指導する小牧先生を紹介いただき、ストックホルム滞在中は大変お世話になりました。
12月のクリスマス休暇が終わった12月30日から昭和54年1月1日まで、ウプサラ市で越年稽古が行われました。
ストックホルムの気温は-18度でしたが、ウプサラ市に着いた時は-28度。稽古参加者は総勢40名ほどで、フィンランドからも顔見知りの10名ほどが参加。30日は、1時間の稽古が4回。1番稽古は道場の前に流れる川で行われました。もちろん外気温は-28度、すっかり川は厚い氷に覆われていました。その氷の上に円陣を作り、杖の基本素振りを歩きながら行いました。稽古衣の下に温かい防寒具を着て、さらに帽子・手袋を着けての稽古です。私は最初、手袋・帽子を着けてはいませんでした。あっという間に手が杖に貼りついたように離れなくなりました。さらに自分の息が耳にかかり凍り付いたような痛さを感じ、急いで手袋と帽子を身に着けました。31日の稽古は各2時間の稽古を3回。日中は-26度、夜には-30度。
深夜の12時、稽古を中断し市村先生の声掛けで「Happy New Year」を祝いました。この様子が翌日の「ウプサラ新聞」に掲載されました。
1月1日越年稽古後に帰宅。こちらでは日本と違い、正月休みはありません。翌日の2日から稽古始めです。そろそろストックホルムの生活にも慣れ始めましたので日中の空いている時間に、英語の勉強を始めようと思いたち市内中央にある「英会話教室・ブリティシュインスティチュート」に入学、週2回のレッスンを受けました。英語学校通いは、3月下旬の妻まち子の到着まで続きました。
市村先生のお供で、2月17日~18日デンマークの首都コペンハーゲンでの講習会に参加しました。1日に2回の稽古、2日間で4回の稽古です。私も2回の指導をさせていただいた。講習会には毎回20~30名が参加し熱心に稽古しました。コペンハーゲンは歴史もあり美しい古都でした。
3月31日~4月1日、ストックホルム郊外の町で週末講習会が行われました。31日は、日本から妻まち子が到着する日。講習会を午後の早い時間で終わるようにしてもらい、会員の車で空港まで迎えに行きました。6ヵ月ぶりの再会です。
4月になっても雪が降る日、マイナス気温の時も多くありました。しかし、太陽が上がり始めるのが日に日に早くなり、日本では感じることのなかった太陽の眩しさ・温かさを肌に感じるようになりました。北欧独特の長い暗い冬が終わり、春の訪れを迎えたのです。陽の当たるところは雪も少しずつ融け始め、土が顔を出し草花が芽吹き始めたのです。
4月13日~16日まで、フィンランド・ヘルシンキでのイースターキャンプの指導のため、市村先生、私とまち子を始めストックホルムの会員10名と12日の客船でヘルシンキに向かいました。13日早朝、ヘルシンキ港に到着。すぐに会場のオリンピック・スタジアム内の講習会場へ。稽古は1日3回、4日間で12回の稽古です。先生と交代で指導を担当しました。講習会終了後、16日夜の客船でストックホルムへ。17日早朝、ストックホルム到着・帰宅。休む間もなく夕方から稽古です。
4月28日~29日、スウェーデン最後の稽古・講習会がファーシタ・スポーツホール道場で市村先生と合同で行いました。5月1日早朝便で、私とまち子はヘルシンキに向かいました。
「フィンランドで再度の指導」
今回のフィンランド滞在は、クオーピオ市1週間、トゥルク市1週間、ヘルシンキ市2週間の予定です。5月に入っても、フィンランドは雪も多く、また湖の氷はまだ融けてはいません。こちらでの稽古スケジュールは昨年同様の結構ハードなものです。5月中旬を迎えるころになると日の出も早くなり朝の4時過ぎには、太陽が燦々と輝き始めました。
トゥルク市滞在中の12日~13日の週末に、スウェーデン合気会主催の「ドイツ・浅井勝昭師範、スウェーデン・市村俊和師範、富田誠治師範、五十嵐指導員による講習会」がストックホルムで開催されました。11日、トゥルク市から、まち子と10数名のフィンランドの会員と空路ストックホルムへ。講習会は1日4回の稽古があり、上記の4名が指導を交代で担当しました。
久々の浅井先輩との再会、土曜日の演武大会では浅井先生の受けを取らせていただきました。この夜のパーティーでは、浅井先生と市村先生のお許しをいただきアルコールの入ったビールを久しぶりに飲みました。浅井先生と6月のドイツ訪問を約し、14日早朝便でトゥルク市へ戻りました。
18日(金)まで、トゥルク合気会の稽古指導を終え、19日(土)早朝に会員の車でヘルシンキへ。ヘルシンキ到着後、休む間もなく20日まで週末講習会です。私の北欧での最後の講習会とあってフィンランド各地から、そしてスウェーデンからも多くの参加者がありました。
5月下旬には、朝の3時ごろには太陽は上がり、窓から差し込む朝陽は、真夏の日差しを思わせ、昼間の時間が徐々に長くなってきます。白夜の始まりを迎えたのです。31日、フィンランド最後の稽古。稽古後に、盛大に送別会を開いてくれました。昨年からの9ヵ月間におよぶフィンランド、スウェーデンでの指導の日程が無事終了しました。送別会での乾杯の味は格別でした。
【ヨーロッパの旅】
北欧でのすべての指導が終わり、6月1日から帰国の16日まで、妻まち子とデンマーク、西ドイツ、オランダ、イギリス、フランスを回ってきました。ここでは、西ドイツとフランスでの思い出を記します。
1.西ドイツ・デュッセルドルフ
デュッセルドルフに道場を構える浅井勝昭先生は、私が明治大学に入学した時には卒業していました。昭和40年秋、23歳で合気道本部道場から西ドイツへ派遣されました。
浅井先生のご自宅に4泊して稽古をお願いしました。小林道場派遣指導員の畑山憲吾さんも半年前から浅井先生の道場で稽古に励んでいました。
デュッセルドルフ市は、日本の商社があり、多くの日本食レストランがありました。「北欧は日本レストランが少ないから、五十嵐は食べたいだろう」と浅井先生が言って、美味しい日本食をごちそうになりました。
浅井先生より、「パリに行くなら、野呂昌道先生の道場で稽古しなさい」との助言をいただきました。
さらに浅井先生からは「今は、合気道は五十嵐の方が、畑山君より上だが、彼が帰国するころまでには鍛え上げて、五十嵐より強くして日本に帰すから、彼に負けないように頑張って稽古しなさい!」という明治大学合気道部の先輩ならでは励ましの言葉をいただきました。今もドイツを中心にヨーロッパ各地で指導をしていらっしゃいます。
2.フランス・パリ
パリでは、バスで半日市内観光。そして有名なノートルダム寺院、エッフル塔、ベルサイユ宮殿、ルーブル博物館を観光しました。パリ滞在最終日、パリ北駅近くの野呂昌道先生の道場を訪れ、稽古をお願いしました。
道場は60畳ほどの広さ、稽古は2回。1回目の稽古は初心者が中心の稽古。2回目の稽古は、道場を4コーナーに分けて行われました。1:初心者、2:中級者(3級以上有段者)、3:上級者(有段者)、4:有段者の4コーナーに振分けられ、すべてが野呂先生の指導で同じ技を稽古。しかし、4コーナーの有段者のところは、技の頑張り合い・関節を完全に極める“手をたたいて参った!”を言わない特別クラスです。私は、4コーナーです。その頃には、私の関節は、痛くない程度まで鍛えてありましたが、四方投げで肘を決めながら畳まで捻じ下ろされるのだけは、つい手を叩いてしまいました。浅井先生の道場の稽古も、野呂先生の指導と同じで、徹底的に関節を準備運動の一環として鍛え上げることをしています。第4コーナーに入れる有段者は、ほぼ関節技は効かない人たちです。関節技は、痛いと思うと恐怖から受けが固くなりがちになるという理由です。
座技正面打第一教のご指導の時、野呂先生が近くまで来て「動きが、小林さんにそっくりだね!」と嬉しい言葉をかけてくださいました。そして更に「その動きは、下半身がしっかりしている小林さんだからできるもので、五十嵐君は基本通りこの様にやった方が良いよ!」と言って直接教えてくださいました。有難うございます。
【海外指導で得たこと】
9ヵ月に及ぶ海外での指導では、大半の稽古人は真面目に真摯に合気道に取り組んでいましたが、もちろん武道ですので挑戦的な態度をとる者、あからさまに頑張る者もいて苦労したこと、悔しい思いをしたことも少なからずありました。未熟さを痛感しましたが、小林先生を始め諸先生から教えていただいた「基本技、術理、身体操法」を駆使して、どうにか乗切ることができました。今、この経験が大いに役立っていることを思うと、先生方に感謝申し上げるとともに、稽古相手の彼らにも感謝です。どういうわけか、そのような彼らとは、それ以後は一層仲良くなりました。
今でも、初めて訪れる国、道場での1回目の稽古指導は不安と緊張感で一杯になります。今は、この緊張感がたまらく好きになっています。この海外での生活は、これからの新しい合気道人生へ大きな力と希望を与えてくれました。
6月16日、海外最後の早朝、パリ・オルリー空港からフランス航空便でパリからアンカレッジ経由で東京へ。昨年9月25日に東京を飛び立ってからの海外生活の終止符を迎えました。6月17日午後、無事に成田空港に到着。
小林道場が大きく発展する中、長期にわたって海外に修行に出してくださった小林保雄先生に改めて感謝の心を強くした時でした。
□ 小林道場指導員として再始動
帰国して早速、合気会本部道場・植芝吉祥丸先生へ帰国と現地の現況についてのご報告に伺いました。先生からは、温かい労いのお言葉をいただきました。
翌週、小林保雄先生ご夫妻へのご挨拶を終え、所沢道場近くのアパートを探しに行きました。新所沢駅近くにアパートを見つけ、6月下旬に引越しをしました。と同時に以前と同じ生活に戻りました。
私の海外滞在中に、小林道場はますます大きくなり、東村山市、日野市、調布市、東久留米市、埼玉県春日部、川越市へと道場が増えていました。私が新しく指導担当するのは、元住吉道場、八王子道場の他に所沢道場、春日部道場、東村山錬心舘道場、本川越道場となりました。
私が北欧から帰国した昭和54年(1979)秋ごろから、小林道場は海外からの内弟子希望者があり受入れるようになりました。第1号は、スウェーデンからのオーベさん、第2号はブラジルの鹿内師範の弟子のベントさんでした。それぞれ3ヵ月の間、所沢道場に住込み熱心に稽古しました。次は、スウェーデンのレンナルト弐段、ウルバンさん、ウルフさんの3名です。彼らの言によると、私の北欧滞在中の合気道の稽古に感化され、日本で修業することを決めたそうです。私にとっては、とても嬉しい言葉でした。
彼らは、所沢道場近くのアパートを借り1年間、熱心に稽古して帰国しました。稽古のかいもあり帰国時には、ウルバンさん、ウルフさんは見事に初段審査に合格しました。帰国後、お二人はスウェーデン・ストックホルム市に「弥栄道場」を開設し、現在も熱心に稽古・指導をしています。特にウルバンさんは、七段師範としてスウェーデンを始め、ヨーロッパ各地で合気道の指導・普及に努めています。
□ 心に残る演武
「真剣での演武」
大学時代の演武大会で、真剣による太刀取りの演武を同期の飯森主将と2回行いました。1回目は3年生秋の大学学園祭、2回目は4年生の時に日本武道館で行われた入学式の武道部紹介演武の時でした。斬りかかる私も真剣でしたが、飯森君もさすがです。私は納刀の時に指を少し切ってしまいましたが、お互いに大きな怪我することなくできました。
今、思い起こすと冷や汗ものです。今は、真剣での演武はとても怖くてできません。若さとは怖いものなしなのですね。
「参段の昇段審査」
昭和48年11月中旬、内弟子の鹿内君、私、そして長野県松本で指導する埼玉大学合気道部ОBの石垣晴夫さんの3名が本部道場で参段昇段審査に臨みました。審査当日、それぞれが受けとして2~3名の現役学生を同行しました。しかし当日の審査委員長の山口清吾先生から言われたのは「3人で受取交代でやりなさい!」というものでした。もちろん3人とも指導者であり若く元気いっぱいです。審査中のことはよく覚えてはいませんが、審査が終わった時には鹿内君は鼻血、石垣さんは手の突き指、そして私は右足の小指を脱臼していました。このことを見ても、如何に激しいものであったか想像できます。審査結果は3人とも合格でした。
今でも3人が集まれば、この話題で盛り上がります。60年にわたって多くの稽古と演武大会を経験してきましたが、この時の昇段審査が、今風に言えば、合気道人生最高・最強のパフォーマンスであったと言えます。
「ナイフでの演武」
スウェーデン・ストックホルムで、市内のトヨタ自動車販売店で日本展が開催され、合気道も演武することになりました。私は短刀取りを頼まれ、演武場に模擬刀を持参しました。しかし担当者から「ナイフを持っているので、これで演武してください」と言われました。演武中、私の不注意から手を少し切りました。日本の短刀は片刃なので、通常に行えば手を切るようなことはありません。しかし、そのナイフは両刃のサバイバルナイフでした。少し出血したことにより演武は観客にとって多少盛り上がりを見せたようですが、私にとっては未熟さを感じる瞬間でした。以後、数回ナイフでの短刀取りの演武を行う機会がありましたが、先ずはナイフの形状を確認するようになりました。
「令和元年全日本演武大会」
六段位をいただいたころから、日本武道館で開催される全日本演武大会に個人演武として出場させていただくようになりました。令和元年5月開催の演武大会は、八段位をいただいて初めての出場でした。大会の1ヵ月前、右目半分に黒い幕がかかったような視覚障害が出て、視界が狭くなり少し不自由を感じていました。演武で座技、半身半立、立技と不安を感じながらも無事に終わることができホッとしました。しかし、この演武が、私にとって両目での最後の演武となりました。翌日、右目は失明しました。
□ 五十嵐道場(橋本)の誕生
55年(1980)夏、父が帰省中の新潟の田舎で急逝。母一人での生活に不安がありましたので、所沢から横浜の実家に引越しをしました。指導道場に行くには少し遠くなりましたが実家から通いました。
実家は、京浜急行で横浜から10分、井土ヶ谷駅から徒歩10分の小高い丘の上にあります。母も高齢で、駅前のスーパーでの買い物や、外出の度ごとの坂の上り下りに不便を感じ始めていました。そんな生活の中で2年が過ぎた時、思い切って母に「この自宅を売って便の良い場所に道場を兼ねた家を建てたい!」と相談しました。母は長年住み慣れた家でしたが「あなたが、そうしたいのならイイよ!」と即答してくれました。
その当時は、八王子道場の指導に横浜線を使っていました。また八王子道場に4名の橋本在住の会員がいました。そして、妻まち子の実家は「橋本」です。「道場を出すなら、ぜひ橋本に!」と、皆に声を掛けられ、とんとん拍子に事は進み始めました。2、3の物件の紹介をいただき、その中から現在の土地を選びました。その頃の橋本は、まだ田舎町で駅舎も平屋で出口も北口だけの小さな駅で、電車も朝夕の通勤・通学時に1時間3~4本、日中は1時間に1本と、まだまだ不便なところでした。京王線相模原線は、近い将来には橋本まで延長と決まっていましたが、まだ京王多摩センター止まりでした。土地は駅から徒歩10分、周りは畑・田んぼ・栗林が広がり、夏にはトンボが舞い、セミが鳴き、カエルの鳴き声が響き渡っています。近くには神奈川県と東京都の境を流れる「境川」があり、大きな鯉やフナなどの小魚が群れをなして泳いでいるような自然いっぱいの場所です。
9月には建設スタート、12月下旬に完成。暮れが押し迫った日に、橋本在住の会員、明大合気道部現役のお手伝いをいただき横浜から引越しをしました。
道場正面に掲げる「合氣道」の揮毫を道主植芝吉祥丸先生にお願いしました。道場の看板は、小林先生に「合氣道橋本道場」と揮毫していただきました。翌年の昭和58年1月9日に稽古を始めました。元住吉道場、八王子道場、明大合気道部現役が参加し賑やかな初稽古になりました。
2月11日(建国記念日)、雲一つない快晴の中「合氣道橋本道場道場開き式」を開催しました。合気会本部道場から、大澤喜三郎道場長が代表して出席してくださいました。また、恩師小林保雄先生ご夫妻、小林道場内弟子、小林道場の会員、明治大学合気道部ОB会員・現役部員、総勢で約150名が小さな35畳の道場にお祝に参列してくださいました。明大合気道部後輩の追分拓哉さんからお祝いにいただいた4斗樽の日本酒と、私が用意した日本酒10本が2時間もかからずに空になったのは驚きでした。私にとりまして合気道人世最高のイヴェントでした。
道場の開設とともに、今までの小林道場と橋本道場の指導で、さらに忙しくなりましたが、自分の道場を持ち、朝から夜遅くまで休みなく駆け回っていたような気がします。私にとりましては、実りある楽しい生活ですが、その反面、良き家庭人でなかったことは歪めない事実です。小林先生の保子奥様の名言「男のロマンは女のガマン!」、正にその通り、妻まち子の我慢と家族の協力があってのことと感謝と反省をしています。
平成5年、創立10周年に合わせるかのように、橋本道場会員で漫画家の林律雄さん原作、作画・引野真二さんで、週刊漫画アクションに「合気道橋本道場」の連載が始まりました。フィクション満載ですが、私からの取材がテーマの中心になっています。半年ぐらい連載されました。漫画は好評だったようで、後に愛蔵版として上下巻二冊で単行本になりました。最近、同漫画が電子書籍として販売されていることを知りました。ぜひご覧ください。
平成10年ごろ、小林保雄先生のご子息・弘明現道場長始め、第二期指導員が大きく成長したということで、小林先生のお許しをいただき小林道場から独立いたしました。と同時に五十嵐道場で昇級・昇段審査を行うお許しもいただきました。
平成19年10月、道主の諮問機関として「合気会参与会」が発足しました。本部道場の担当師範から、道主の指名により参与就任の要請をいただきました。当時、合気会は財団法人から公益財団法人への移行もあり、各都道府県連盟の設立が急務となっていました。月に1回だったと思いますが、土曜日の午後に道場隣の3階会議室に10名ほどの参与が集合し、道主植芝先生から与えられた課題を2~3時間かけて議論を重ねました。2年ほど続いたと思います。道主、全日本合気道連盟理事長・尾﨑晌先生のご努力により、47都道府県にすべて連盟が組織されました。少しはお役に立てたのではと思っています。
平成24年、第11回国際合気道講習会・演武大会が開催された時、やはり道主の推薦をいただき同大会の講習会の指導と演武大会の出場をさせていただきました。道主からお声掛けをいただいた参与会、そして第11回国際大会での経験が、更に合気道を思う私の心を大きくしてくれました。
また、この月刊武道誌「私の修業時代」の寄稿も、道主からの推薦と聞いています。有難うございます。
□ 再度の海外指導
昭和60年(1985)2月、明治大学合気道部西ドイツ合宿に引率者として同行することになりました。浅井先生の渡独20周年を記念する合宿でした。合宿終了後、久しぶりに北欧のスウェーデン、フィンランドを回ってきました。この訪問を機に、両国合気会から指導要請があり、小林先生が年に1回、私が年に2回の指導をするようになり、私の再度の北欧指導が始まりました。
前述しましたが、合気道小林道場3番目の川崎元住吉道場出身の稲葉泰久さんが、昭和55年に長年の夢をかなえカナダ・カルガリーに家族で移住しました。そして彼は、仕事のかたわらカルガリー合気会を創立して指導を始めました。平成2年(1990)夏、カルガリー合気会10周年記念が開催され、小林先生と私が出席しました。これを機に、私が定期的に指導することになり年に1回、同地を訪れるようになりました。また、平成21年、稲葉師範の急逝により私が指導責任者となり、冬と夏の2回指導するようになりました。
50歳半ばを迎えたころ、年ごとに北欧での講習会・合宿にヨーロッパ各地からの参加者が増えるようになり、ヨーロッパ数ヵ国の合気会、組織・団体からの指導要請が増え始めました。海外指導を少し減らそうかなどと考えていた時に、ドイツの浅井先生に「五十嵐に、指導に来てくださいと言われているうちが花だよ」と、また「五十嵐から何も得ることがないと思われたら、誰も呼んでなんてくれないよ!」と厳しくもあり温かいお言葉をいただきました。この助言を受け、海外からの指導要請はできるだけ受けるようになり、多い時には年4~5回、延べ日数にして100日ぐらいの時もありました。現在まで訪れたことのある国は;
(アジア)台湾、韓国、フィリピン、ベトナム、シンガポール、タイランド
(ヨーロッパ)フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、ポーランド、ハンガリー、イギリス、フランス、デンマーク、ドイツ、ギリシャ、アイスランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、オランダ。そしてロシア。
(アメリカ大陸)アメリカ、カナダ、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン
(豪州)オーストラリア
(アフリカ大陸)エジプト
数えてみると、5大陸29ヵ国になりました。私のような一個人道場道場長が、このように多くの国々との交流の機会を作って下さったのは小林先生です。感謝の言葉しかありません。私は、小林先生始め先達の先生方からの教えを、国内外の道友に少しでも広め伝えていくのが、今後の私の使命と考えています。
私の体調不良とコロナ禍で中断していた海外指導は、令和5年(2023)2月の台湾、9月の韓国と復活しました。今年は2月、台湾に行ってきました。7月には、令和2年(2019)から、コロナ禍もあり訪問ができなかった北欧(フィンランド・スウェーデン)に行きます。また9月には韓国が予定されています。さらに、令和7年8月下旬には、カナダ・カルガリー合気会創立45周年が開催されます。私はもちろん参加します。
現在も多くの国々から指導要請をいただいています。今も、私は体調に不安を抱えていますが、海外指導に出かけることが大きなモチベーションとなっています。私の体調不安を払拭するためへの大きな挑戦でもあります。招聘先の皆様に、ご迷惑をおかけしないように体調管理に努め、以前と同様に海外の道友と楽しい稽古をしたいという気持ちでいっぱいです。デンマークの有名な童話作家アンデルセンは「旅は私にとって精神の若返りの泉」と言っています。私にとりまして、海外への合気道の旅は「正に精神の若返りの泉」と言えます。
「海外からの住込み稽古制度」
私の海外指導が増えるにつれ、橋本道場に住込んで集中した稽古がしたいという熱心な申し出も増え始めました。受入れ要件は、観光目的でないこと、所属団体責任者の推薦状と保証書があり、最低1ヵ月以上は住込むことが条件です。現在まで、欧米、アジア、オーストラリアから、延べ30名ほどの住込みを受入れてきました。稽古はもちろん、寝食を共にしますので日本の生活、伝統文化にも触れてもらえたと思っています。住込み当初は文化の違いから行き違いもありましたが、道場ステイを楽しんでもらえたようです。
帰国後は、自国の合気会・団体・道場の指導者の一人として活躍しています。また、合気道の専門家となった人も多くいます。私が保証人になり「合気道文化ビザ」を取得して長期滞在で内弟子生活をした人も数名います。
□ 私の武道歴
先にも記しましたが、私は高校在学中に柔道を3年間稽古しました。そして、明治大学入学と同時に合気道部で稽古を始め、現在にいたるまで楽しく続けています。
現在まで、機会があると種々の武道に触れることに努めてきました。記憶をたどりながら、私が少しでも稽古・体験した武道について振返ってみたいと思います。
【居合道】明大合気道部3年生の時、1年生の追分拓哉君(現・福島武道館館長七段)の紹介で、彼が稽古する京王線明大前の隣駅・下高井戸駅の岡田守弘先生の「尚道館道場」で居合道(夢想神伝流)・杖道(神道夢想流杖道)の稽古を始めました。大学での合気道の稽古を終えてから2人で通いました。岡田先生は全日本・東京都剣道連盟や居合道連盟の重職をお務めの重鎮で、剣を振る姿はユッタリとした動きの中に緩急があり、とても優雅で重厚なものでした。
稽古後のお茶の憩いの時に、「若い時に鞍馬流剣術を修行、剣道の試合に流派にある“刀を巻き上げて落とす技”をよく使って良く勝ちました。しかし、ある試合後に高名な剣道の先生に“その技は下品だから止めなさい!”と言われ、以後使わなくなりました」と、岡田先生からお聞きしました。私は「試合に技の上品・下品はないだろう!」「それは敗者の言葉でしょう!」「先ずは勝つのにベストを尽くすのが武道・武術の目的」「鞍馬流の流祖から築き上げてきた技を否定するのはどうだろうか?」「伝承が否定されると技が継承されなくなる」と、いろいろ考えたことを思い出します。やはり現代の武道には「美しく勝つ、上品に勝つ」ことが要求されるのでしょうか?まだ疑問が残っています。
居合道の稽古を始めて半年、三年生の終わりごろ居合道初段の審査会のために日本武道館に追分君と行きました。作家の三島由紀夫さんが、やはり初段の受験に来ていました。休憩室の小道場に赤毛氈が敷かれ、多くの報道陣と取巻きの美しい女性が、三島さんを囲んでいました。審査で整列してみると三島さんの受験番号が私の一番前という偶然でした。三島さんの刀を見ると、とても高価そうに見えたので「三島さんの刀は名刀なのでしょうね?」と、追分君と聞いてしまいました。「いいえ!そんなに高価な刀ではありません。」と親切にも答えてくれました。私と追分君は見事に初段に合格しました。そして三島さんも合格でした。
大学卒業後も、岡田先生の道場に稽古に通い居合道参段、杖道初段をいただきました。
[岡田先生のエピソード:岡田守弘は鞍馬流剣術の技「変化」で会得した竹刀の巻き落としを得意とした。一度も打ち合いせず富山県警察部師範の松本重平は九回、武道専門学校教授の佐藤忠三は六回も竹刀を飛ばされた。大島治喜太も度々竹刀を落としたが、大島は「そのような技をやっていると大成しない」と言って巻き落としを禁じた。また、岡田の師匠である斎村五郎もこれに同調したため、岡田は巻き落としを使わなくなった。]
また、小林道場の内弟子の時、小林先生、私、鹿内さん(現・ブラジル在住師範)の三人で、西武線沿線の杉並区にある剣道・居合道で高名な大村唯次先生の「唯心道場」へ、しばらく通いました。大村先生の居合は、私は岡田先生とは違ってスピード感と力強さを感じました。下記に大村先生のエピソードを紹介します。
[大村先生のエピソード:先生は、植芝盛平翁先生と交流のあった剣道・居合道で高名な中山博道先生の直弟子のお一人です。居合道を通じて作家の三島由紀夫と面識があり、防衛省で自決する前夜に「大村先生、介錯(かいしゃく)の作法を教えて下さい」と電話があったそうです。大村先生、その三島の声が尋常なものでないのを悟り「三島さん、それを私に訊いて、あなたはどうなさるおつもりですか」と応じたといいます。三島は絶句したままで、しばらくしてから「申し訳ございませんでした」と侘(わ)び、電話を切ったという逸話が残っています。]
【杖道】杖道は、前記のように大学時代に岡田守弘先生の「尚道館道場」で居合道(夢想神伝流)とともに杖道(神道夢想流杖道)の稽古を始め初段をいただきました。また、私が小林道場内弟子時代、東小金井に「合氣道小金井道場」の道場を構える小林先生のお友達の奥村源太先生に渋谷の清水隆次先生の神道夢想流杖道「錬武館道場」を紹介していただき、稽古する機会を数度いただきました。奥村先生は、杖道を清水先生のご指導のもと長年にわたり稽古し、小金井武道館で合気道と杖道を教えていました。
私の錬武館道場での初めての稽古から、清水先生直々に基本を教えていただけるという素晴らしい時間を満喫しました。しかし、稽古では毎回、清水先生に運足の注意を受けました。そして、稽古後に道場内で車座になって行われる飲み会とともに、帰りの渋谷駅前での二次会と、飲むために通っていたのではと思うくらいでした。
錬武館道場で、代々木に「杖道・紘武館」の道場を構える松村重紘先生と知己を得て、今も親しくしていただいています。松村先生には「五十嵐道場十周年記念演武大会・記念祝賀会」に出席していただき演武をしていただきました。
【天真正伝香取神道流】40数年前、菅原鉄孝先生の勧めもあり千葉県成田市にある大竹利典師範の「神武館道場」へ、月に1回土曜日に通っていました。ある大雪の日に稽古に行きました。その日、私以外は誰も稽古人が来ませんでした。一人稽古をしていると、大竹先生が稽古衣で道場にお顔を見せてくださり、それから一時間マンツーマンで相手をしてくださいました。稽古後の掃除は、水が冷たく広い道場の雑巾掛けが一人で大変でした。帰途は、成田駅までのバスが来ないので、しばらく寒さに震えながら道を歩きました。靴の中までビショビショになりました。でも、大竹先生からマンツーマン指導を受けたことは、とてもラッキーで、体中が幸せに包まれ温かいものでした。指導者としての心構えを無言の内に教えていただきました。神武館道場通いは7年間続けました。
その後、菅原先生が大竹先生から「教師免許」を印可されたのを機に、橋本道場で教えていただくようになりました。今は、菅原先生から教師免許をいただき橋本道場で日曜日に稽古しています。立ち方、間合い、目付、気合など、合気道の稽古に役立つことが多くあります。
【空手道】菅原鉄孝先生が東恩納盛男先生の『沖縄剛柔流空手道』全4巻を出版。それを機に、東恩納先生の高弟・加藤友幸先生の小田急線東林間駅近くの「沖縄剛柔流空手道場」に、まだ元気いっぱいの30代後半から40代半ばにかけて6年間、月に6~8回は稽古に通いました。今、思えば突き100本、蹴り100本と、よくできたものです。夏場の稽古後、帰宅途中のコンビニで飲んだポカリスウェット500ccも一気でした。やはり私は打突系に向いていないのか上達はしませんでした。やっと加藤先生のご厚意で3級茶帯をいただきました。でも、突き、蹴りがそれなりにサマになるようになったことは素晴らしいことと自画自賛しています。
また合気道が縁で、松濤館流八王子道場の岡野友三郎先生、糸東流昭島順道館の早川忠仁先生、松濤会江上空手元住吉道場の伊藤勝洋先生の先生方には、直接に空手の指導を受けたことはありませんが、お会いするたびにご自身の修行稽古時代の経験をお話しくださいました。3名の先生とも、私にとって大先輩です。とても貴重な内容であり大切な教えがいっぱいありました。
【中国武術】菅原先生が橋本道場で香取神道流の稽古時間に少し教えていただきました。先生は中国から毎年のように中国武術の第一人者をお呼びして講習会を開催しました。その度に、特別講習会に参加させていただきました。「中国には、まだまだ達人・仙人のような武人がいるのだな!」と、その度に中国の大きさと歴史の偉大さに驚きを覚えました。その後、太極拳を学ぶ機会もいただきましたが残念ながら長続きはしませんでした。
【大東流】 小林道場内弟子仲間の長谷川弘幸さん、橋本道場朝稽古会員の佐藤紀男さんが、大東流佐川幸義先生のお弟子さんの木村達雄先生に大東流を学んでいました。
木村先生は、合気会本部道場で長年にわたり山口清吾先生のもとで稽古し、約40数年前に大東流の佐川先生に弟子入りしました。佐川先生門下の筆頭のお弟子さんの一人です。
木村先生は、佐川先生について書いた「透明な力」を講談社から出版、私も購読しました。十数年前に長谷川さん、佐藤さんの勧めもあり、筑波大学に木村先生をお訪ねしました。大学内の柔道場で2時間近く稽古をさせていただきました。木村先生の会員は、先生に投げられたり抑えられたりすると「ウッ!、アッ!」と言葉を発しています。しかし、私は腹の中心に「ズドーン・グッと!」と強く響く感覚があり、声すら出すことができず投げられ抑えられました。
稽古後に、木村先生のご自宅に招かれ、山口先生との思い出や海外での経験、佐川先生との思い出などを、とても気さくにお話しをしてくださいました。たった一度の体験でしたが、以後の私の合気道に大きなヒントをいただきました。翌朝、自宅で目が覚めると腹筋がすごく痛かったことが印象的でした。「合気は技術である」という木村先生の言葉は、簡単なようで非常に掴みどころのない難しい課題といえます。
植芝盛平先生も佐川先生も武田惣角先生から大東流を学びました。植芝翁先生は「合気道」を創始し、佐川先生は独自の大東流を編み出した先生です。木村先生も著書に「佐川先生は日々進化しており、亡くなられる数日前に投げられたのが最高で最強でした。」と記しています。
また、翁先生も「亡くなるまでが修行じゃ!息を引き取る時が最強である。」と語られていらっしゃいます。小林先生は植芝翁先生に投げられ抑えられると、背中やお腹にズーンとくる重みを感じたと言っています。中心を攻める、中心をコントロールすることの大切さを学びました。
【私の合気道】私の稽古の中心は、あくまでも合気道です。しかし、機会をいただき稽古・体験した武道全てが、私の血となり肉となり合気道に大きな力を与えてくれています。ひとつのものを突き詰めるのも素晴らしいことと思います。しかし、チャンスがあれば種々の武道・スポーツの経験は必ず自身の力になることも事実と言えます。
□ 私の信条
「病から得たこと」
70歳を過ぎたころ、市の検診で左右頸動脈狭窄が見つかりました。これも学生時代から続いた暴飲暴食が原因と言えます。それまでは「薬いらず・医者いらず」の健康な生活を過ごしていました。平成最後の年となった31(2019)年1月、本部道場鏡開き式で八段位に昇段させていただきました。八段といえば、小林先生や先達の先生方のように業は円熟し気位が備わった姿を思い起こします。私にとりましてまだまだ遠い境地です。これからも挑戦と修業あるのみです。
年号が令和に変わったころから、年齢とともに体調に異変を感じるようになりました。極めつけは、5月下旬に襲った右目の失明でした。しかし意外と冷静でいた私がいました。それは、大相撲の名横綱双葉山関が左目を、合気道の先達の佐々木将人先生が右目を失明していたにもかかわらず大活躍されたのを知っていたからです。しかし片目での日常生活、合気道の稽古に慣れるまで2~3年はかかりました。
同年12月、右肩に強い痛みを感じ、北里大学病院整形外科を受診、結果は右肩腱板が断裂し3本の腱が切れていました。令和2年(2020)1月初めに入院・手術を受けました。退院まで20日間を要しました。退院後、同病院にリハビリに通い続けた3月初旬、ようやく少しずつ動かせるようになりました。
そろそろ稽古を始めようと思った3月下旬、新型コロナウイルスまん延のため政府要請により3月末から5月末までの2ヵ月にわたり道場を閉鎖しました。道場会員の方々にはご迷惑をお掛けしましたが、私にとっては良いリハビリと休養期間ともなりました。
令和4年(2022)、狭心症を発症し3度の入院・手術を経験しました。また令和5年10月下旬に、この月刊武道誌から依頼されました「私の修業時代」の原稿整理中、大腸炎を発症して緊急手術のため2週間入院しました。
「人生に偶然はない」と言われています。これらの病も天から与えられた試練と受止めています。退院できるたびに「人間は生きているのではなく、生かされているのだ!」と実感しています。健康と幸福は最も価値のある人生です。
令和5年5月には、道歴60年・道場創立40周年を迎え、道主植芝守央先生ご夫妻、小林保雄先生始め、諸先生方、道友の皆様、道場会員、そして海外から220名の出席をいただき盛大に開催させていただきました。また記念合宿にも国内外から130名の参加をいただきました。
今は、開祖植芝盛平翁先生、二代道主吉祥丸先生、三代道主守央先生、本部道場長充央先生の四代にわたる先生に師事し、また60年以上にわたって小林保雄先生にご指導をいただけることに大きな喜びを噛みしめながら楽しく稽古と指導をしています。
次の私の目標は令和15年の「創立50周年・道歴70年」です。先に目標があるのは、私にとりまして最高の秘薬、長生きの秘訣でもあります。
昔から「修行に終わりなし」と。また開祖植芝盛平先生は「生ある限り修行じゃ!」と言われています。私は、朝に目が覚め、道場の掃除、神棚のお守りができる限りは稽古ができると思っています。
□ 私の合気道稽古考!
私は、今も小林保雄先生を始め多くの先生方に学ぶことは止めてはいません。合気道は稽古をすればするほど、身体中に湧き出てくるものがあります。だから止められないのです。
合気道の稽古を始めるキッカケとなった合気道部4年生の言葉「合気道は小さな身体でも大きな人を投げることができる!」を、今でも追いかけている自分がいます。また、初めての合気道的な言葉は大学の稽古で先輩に言われた「合気道は気を合わせる道」「気が出ていないぞ!」「気が入っていないぞ!」と言う「気」という文字の入ったフレーズでした。その後、多くの先生方の稽古・指導を受けながら学んだことを書き出してみます。
- 気と身体の捉え方:「合気道は先の先の武道である」「目は心の窓、目で相手の起こりを見ろ」「気は心の扉」「私たちの使っている力は氷山の一角にしか過ぎない」「火事場のバカ力」「顕在意識・潜在意識とは」「気が身体を動かす」「力は出すものであって入れるものではない」「統一体、重心は最下部にある」「先ずは相手の目を見ろ」「相手の目に心をとらわれるな」「位は遠山を見るように」「接触点は大事だが囚われるな」「合気は半身の武道」「稽古は三年後の稽古を」「身体は内なる気に応じて動き、気は心の向かうところに従う。ゆえに心変ずれば気変じ、気変じれば体変ず」…… 他。
- 身体操法:「合気は技術である」に始まり、「合気の技はテコの原理」「力の方向性を合わせる」「合気は渦である」「遠心・求心、独楽の動き」「反対側を意識して使え」「間合いは膝にある」「肩甲骨をもう少し柔らく上手に使え」「肩関節・肩甲骨・骨盤を閉めろ、緩めろ」「ヒンジ(蝶番)の動き」「歯車(ギアー)の動き」「橋げた・井げたの原理」「下半身をもっと柔らかく使え」「背中で回れ」「胸で回れ」「喧嘩腰をつくれ」「一教は手首の腹側をしっかりと掴む」「二教の裏は、小指を相手の鼻面に向けろ」「三教は自分の手の甲を見ろ」「一教運動は小指・親指を意識して」「合気の動きは剣・槍の動きから」「一円、二円、三円、四円」…… 他。
また、海外の言葉として「Slow is Smooth, Smooth is Fast」が、大好きな言葉です。
- 稽古上の留意点:「稽古は愉快に!」「力による頑張りあいの稽古を禁ず」「勝手に受けを取るな」「受けに型はない」「何も考えず無心で稽古しろ」「稽古は考えてするものだ」「理屈は後からついてくるものだ」「稽古は固い稽古から始め、徐々に柔らかい稽古を」「技は理から入れ」「屁理屈を言うな」「まずは稽古しろ」‥…… 他。
上記の教えの中には、同じような教え、相反するような教えもあります。よく表裏一体と言われていますが、一つひとつが興味が尽きない教えです。どの教えも合気道に限らず、全てのスポーツに通じる身体操法・術理(理合い)と言えます。
これらの学びが、まだ私の頭の中だけで渦を巻いていて体現できないことも多くあります。しかし、それらが少しずつ分かるようになる、できるようになることが稽古の大きな喜びです。そして、それらが一緒に稽古する人たちと共有できることが、私の役目であり、教えてくださった先生方への恩に報いることと思っています。
以前、本部道場鏡開き式において、多田宏先生が開祖植芝盛平翁先生のお言葉として、上記の「合気道は先の先の武道である」を紹介されました。このお言葉は、ただ単に目先の争いに勝つための「先の先」ではありません。香取神道流でも「兵法は平法である」と説いています。如何に、常に自然体でいるかを問われる言葉と言えます。
以前、NHKのドキメンタリー番組で、ブルース・リー特集がありました。番組最後の、彼の言葉「水になれ! To be water!」が印象に残りました。水は、どんな器にも溶け込むように入ります。人間もそうあるべきと彼は説いていました。
自然の恵みとして水の他に空気があります。私は「水になれ!」の他に「空気になれ!To be air!」もあると思っています。盛平翁先生の「先の先」は、正に「水になれ・空になれ・無になれ」ではと思います。水も空気も環境が変われば、水は豪雨になり津波にもなります。空気は竜巻になり台風にもなります。ともに凄まじい大きな力をその中に潜めています。盛平翁先生は、道文の中で「武の合気は、如々くウズマキを画いて集中する。そのウズマキの中に入ったら無限の力が湧いてくる」と記しています。
身体操法の一円から三円は、自分を中心として描いた小さな円です。四円は開祖盛平先生が説かれた「宇宙の氣との結び・合体」と言えます。
芸事や習い事は、師匠からの教えを五感を通して学び、習得していきます。そして学び・習得したものを第六感を含めて表現することを求めています。五感とは、聴覚、視覚、触覚、嗅覚、味覚を言い、第六感は五官以外にあるとされる感覚で,物事の本質を直観的に感じとる心の働きで勘やインスピレーションのようなものと言われています。その第六感は、年齢とともに衰えていきます。しかし、武道・武術の稽古は、その衰えをカバーするに充分なる力があると言われています。
【稽古の段階】
昔から武道は、目録、初伝、中伝、奥伝、秘伝、そして一子相伝で口伝になります。
私が、ちょうど参段位をいただいたころ、翁先生の内弟子として修業された高段者の先生が「これが私の参段の証状」と言って見せてくださいました。もちろん、その証状は合気道・開祖植芝盛平翁先生のお名前が記された証状です。その証状には「参段・奥伝」と書いてありました。参段位が合気道の奥伝になるのだと知りました。因みに、私の弐段位までの証状は盛平翁先生のお名前で発行されています。もちろん、その証状には“目録、初伝、中伝”の表記はありません。
稽古の段階を表す言葉で有名な一つが、柳生新陰流の「三磨之位」です。柳生新陰流では、剣の修行過程には3つの段階があるというのです。「三磨」とは「習い・稽古・工夫」の3つの修行過程を指します。「位」は段位などと同じ意味で修行の段階を意味しています。つまり、具体的には、「習いの段階」は疑いを持たず忠実に習う。「稽古の段階」はできるまで諦めず徹底して稽古する。「工夫の段階」は自分の工夫をとりいれてより技の習熟度を高めることを指しています。この3つの段階が円上を切れ目なくぐるぐると周り繰り返すことで、いつのまにか剣の奥義に到達できるという教えです。
また、もう一つ稽古の段階を表す有名な言葉として、茶道の千利休の「守破離」という教えがあります。「守破離とは、守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」を引用したものとされています。修業に際して、まずは師匠から教わった型を徹底的に「守る」ところから修業が始まり、その型を身につけた者は、師匠の型はもちろん他流派の型なども含め、自分に合ったより良いと思われる型を模索し試すことで既存の型を「破る」ことができるようになります。
さらに鍛錬・修業を重ね、かつて教わった師匠の型と自分自身で見出した型に囚われることなく、言わば型から「離れ」て、自在となることができる。このようにして新たな流派が生まれるのです。 「本を忘るな」とあるとおり、教えを破り離れたとしても根源の精神を見失ってはならないということが重要であり、基本の型を会得しないままにいきなり個性や独創性を求めるのはいわゆる「形無し」になります。
開祖のお言葉に稽古の段階(位)を表す「剛柔流氣」があります。剛の技(固体・固い稽古・基本)、柔の稽古(柔体・柔らかい稽古・応用)、流の稽古(流体・流れの稽古・変化)、氣の稽古(氣体・氣を重視した稽古)。そしてやはり、氣体の稽古から剛の固い稽古(基本)に戻り巡る重要性も説いています。
今も、五段位が最高位の武道が多くあります。不遜な表現とは思いますが、私は五段以上の昇段は稽古を長くしてきたご褒美だと思っています。正に“継続は力なり”です。五段からは、個々が責任をもって自己の合気道を目指し、かつ自己の合気道を確立していくころかと思います。
【合気道とは?】
「合気道とは何か?」との問いかけに、満点の回答はないと思っています。各自の中に、少しずつ「自分の合気道」が芽生えていくものと思います。私の尊敬する神奈川県合気道連盟名誉会長の武田義信先生の道場には「合気」の掛け軸が掛かっています。どうして「道」の字が無いのだろうか? 先生のお答えは、合気道は植芝盛平先生が完成させた「合気の道」です。個人個人が翁先生の合気道を稽古する中で、それぞれが自分の「道」を拓きなさい、という意味が含まれているとのことでした。
植芝盛平先生は道文の中に「すべて道は、あるところまで先達に導かれますが、それから後は自分で開いてゆくものなのです」と記しています。
また、彫刻家・詩人の高村光太郎の「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」の言葉もあります。ともに奥深い言葉です!
合気道と呼吸
岩波古語辞典に「いのち」の語源は、イは息、チは勢力で「息の勢い」が原義とあります。「息とは呼吸」。 呼吸と言えば「腹式呼吸法」。少し専門書を見てみると「いのち」の根源につながっているのがわかります。
口から息をまずゆっくりと吐くと胸腹腔内圧が上昇し、大静脈が圧迫されて血液が心臓に戻りにくくなる。すると、心拍出量と血圧が低下するため、交感神経が感応して活性化する。そして息を鼻で吸い込むと静脈から一気に血液が心臓へ流れ心拍出量と血圧が上昇し、それに対抗すべく今度は副交感神経が活性化する。この副交感神経の活性化によって心拍数が下がり、消化器への血液供給量も増え、身体はリラックスし、ストレスも軽減される。また副交感神経には白血球の一部であるリンパ球を増やす働きがあり、免疫力アップにもつながります。
交感・副交感神経は意志で調整できない自律神経であるため、呼吸は自分の意志で自律神経のバランスを回復できる唯一の手段と言われています。無意識の息(呼吸)を意識的な息(呼吸)に変える。
武道においても、腹式呼吸は認知・判断能力の向上や筋肉の緊張からの解放をもたらし、結果的に優れた身体パフォーマンスにつながると言われています。 近年の科学的検証を通して、実際に医学的効用をもたらすことも明らかになっています。
今後の稽古では「自らの息・自ずからの息」を一つの課題として稽古してまいります
合気道の楽しみ方?
合気道を稽古する楽しみ方には、以下の三つがあると思います。1.武術、2.武道、3.生涯武道(健康法)です。この楽しみ方は、稽古する年代と段位に当てはめてみると分かり易いと思います。10代後半~20代は、前記した稽古の段階の「習い・守」であり、師の教えを守りひたすら激しい武術的な稽古に励む時であり初段から参段位までと言えます。30代~40代は、さらに深みを増して内実を見つめる「稽古・破」の段階の稽古で、正に武道的な稽古をする四段・五段位を迎えるころかと。50代になったら術より理を追求しながら「工夫・離」の段階で、六段位以上を目指す稽古を。楽しみ方は、人それぞれですが、生涯武道として医者要らずの健康な身体作りに心がけて稽古を楽しむことが大切です。
前項に、植芝盛平先生の道文「すべて道は、あるところまで先達に導かれますが、それから後は自分で開いてゆくものなのです」を紹介しました。合気道は試合武道ではありません。競技武道は、どうしても勝負にこだわりがあります。しかし合気道には試合はありません。合気道は稽古を通して「正勝・吾勝」の心で自分自身に向き合う稽古です。翁先生のお言葉通り、自分の道は自分で切り拓いていくのです。そこに合気道の楽しさがあり、稽古を通して自分自身の合気道をクリエートしていく喜びがあります。
発明王といわれるトーマス・エジソンが、こんな言葉を残しています。「私は失敗したことはありません。ただ、一万通りのうまくいかない方法を発明しただけなのです」と。一見負けず嫌いの屁理屈のように聞こえますが、皆様はどう感じますか? 失敗をも楽しんだ人の本当の言葉と思います。一つの失敗は前進するための過程にすぎません。
合気道の稽古も然りです! 諦めてしまったら前進はありません。稽古を続ける中に、技の上達のコツ(気づき)があります。このコツの発見が稽古の醍醐味と言えます。
エジソンは一万通りのうまくいかない方法の発明後に、後世に残る見事な多くの発明をしました。私たちも、とりあえず一万回の稽古をした後に、前進するか諦めるかを決めましょう。
稽古・鍛錬とは?
武道用語に鍛錬という言葉があります。その意味は厳しい稽古や修養を積んで心身や技能を強く鍛えることを指します。 この言葉は、宮本武蔵の兵法書『五輪書』にも登場しており、「千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす」という言葉が使われています。武蔵は、心身や技能を鍛えるには長期間の厳しい稽古や修行が必要と説いています。一日も休まずに毎日稽古をしても、一万日を迎えるには約30年を要します。
橋本道場は、週6回の稽古があります。会員の平均稽古日数は、週2回、月に8~10回、そして年間にすると100回~120回となります。五十嵐道場会員は、平均すると入門10年で、稽古日数は千日を超え参段に昇段します。
「百錬自得」という教えもあります。一錬とは一万日です。それが百錬となると百万日・百万回です。百万日・百万回の稽古を経てこそ武道・武術の最高の境地に自ずから至ると
いう教えです。百万日は生きることさえ難しいですが、百万回の稽古は可能です。例えば木刀の素振り100万回や、入身投げ100万回などに挑戦しては如何ですか!
そして、その後にどのような景色が待っているか楽しみですね! 先は長いです。
術理一致
前記の稽古上の留意点に、「理屈は後からついてくるものだ」「技は理から入れ」「屁理屈を言うな」「まずは稽古しろ」と記しました。
稽古は、まずは師の示す「型」の反復練習から入ります。合気道に限らず、どの武術・武道の「型」は、創始者が稽古・試合(死合)を通して必死に修業し築き上げた「術・理」から「型」が創られています。「型」は、正に武術の真髄・神髄といえます。
高名な武道家が、「武術・武道は理であると、心(理)のみを主張して術(技)を軽視する人、また術のみを主張して心を軽視する人がいます。これは心と術とは独立した2つの別のものと見ているからです。理を悟っただけでは、実際の場に当って役に立たないこともあり、机上の理論となってしまいます。そこで術の修行が必要なのです。術の修行は、先ず全身全霊をかけて型の習得に向けて真剣に鍛錬する事にあります。武術・武道の修行は、術の修行までが基礎といわれ、少なくても十年はかかるといわれています。この“黙々十年”の修業段階によく堪え抜いてこそ、次の修錬段階が見えてきます。」と述べています。
先ずは、自分自身で身体操法・術理・コツに気づくための稽古・鍛錬しかありません。心(理)と術は別ではありません。理即術、術即理、術理一致、術理一如、心身一如です。
最後に、開祖盛平翁先生の道歌2首を紹介します。
「向上は秘事も稽古もあらばこそ極意のぞむな前ぞ見えたり」
「日々のわざの稽古に心せよ一を以って万に当るぞ武夫の道」
□ 五十嵐道場の今昔!
相模原市橋本に道場を開設して41年目に入りました。この間、小林保雄先生の「一人でも多くの人に合気道を!」をモットーに、立川教室、八幡山教室、南平教室、相模原千代田道場、相模原アイワールド教室、相模原道場、本厚木教室、梅が丘教室と道場を増やしてきました。しかし、前述しましたように70歳を超えるころから体調の衰えを感じるようになりました。それとともに令和2年(2020)からのコロナ禍もあり、すべての五十嵐道場から子どもクラスを廃止し、ともに道場数を減らしてきました。現在は五十嵐道場としては橋本道場、八王子道場、新宿優和会の3道場が五十嵐道場として活動しています。
[橋本道場の今]
直近の日曜日稽古を観察してみると参加者が、珍しく少なく13名。何気なく見ると、実に若者が少ない!10代が1名。20代~40代がゼロ、50代が4名、60代後半が4名、70代が4名。今日の稽古は、正に高齢者道場です。でも、どうしてシニアの皆さんは元気なのでしょうか?
橋本道場の年代層をチェックしてみました。現在の実動会員は37名です。10代2名、20代ゼロ、30代4名、40代6名、50代10名、60代6名、70代9名になります。創立40周年になりますので、もちろん高段者が多く五段以上が三分の一を占めています。級の会員は3級1名、7級が2名、そして初心者は0名です。
親睦会長の72歳の橋本春男六段の言によると「リタイア生活の老人には、行く場所が少なくなり、道場は最高・最適な場所!そして稽古後の一杯は大満足!」とのこと。
有名な老化研究家の小林武彦先生の言葉に「ヒトは老いて、人になる」があります。先生によると、野生の動物には老後はない。老いは進化の過程で、生物としてのヒトが手にした特権であり、誰もが元気に活躍を続けられるわけではない。病気もあるし、やりすぎれば「老害」と嫌われる。だからと言って隠居を急ぐ必要はあるまい。「いかに人らしく生きるかは、老後をどう過ごすかにかかっていると思います」と。
経営コンサルタントの船井幸雄先生が「人間にとって非常に大事なことは学び、覚えることで、生涯続けなければなりません。学ぶことをやめた途端に人は老い始めます。学んでいる間は若々しいのです」と、また上手に生きるコツとして「興味、好き、確信」の三条件をあげています。 これらの言葉は、孔子の「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」に通じるところがあります。興味があるから好きになり、好きだからこそ確信できるまで努力します。
合気道をよく知り、かつ愛し、稽古を楽しんでいる道友との稽古・語らい、そして稽古後のお酒の一杯ほど楽しいものはありません。道場の70歳以上の中期・後期高齢者の皆さんは、私以上に元気いっぱいです。老人一同、老害と言われないよう、またパワハラにならない程度に、これからも若者(50代も含)をドシドシと引っ張っていきましょう。
私は、78歳の後期高齢者、もうドタンバタンとした稽古や指導はできませんが、基本・身体操法・術理を大切にして、“楽しく・厳しく”、あと10年は、会員諸氏のご協力ご助力をいただきながら稽古指導を行ってまいります。
□ あとがき
ロシアの有名な文豪のマキシム・ゴーリキーの名言六選の1つに「仕事が楽しければ人生が楽園だ。仕事が義務なら人生は牢獄になる」があります。私は合気道が大好きで稽古が楽しくて、今まで続けることができました。合気道の稽古、道場経営を修行や仕事などと考えたことは僅かしかありません。そんな時は、体調不良の時か、または稽古にスランプを感じた時でした。
「継続は力なり」の言葉がありますが、何事も続けるのは本当に難しいことです。以前は、習い事に当たって「やり始めたことは、簡単にやめるな」と、指導されていました。色々なことに手を出す人間のことを「器用貧乏」と揶揄したり、「二兎を追うものは一兎も得ず」と言われていました。現在、スポーツ界ではクロストレーニングの名のもと種々のスポーツを練習することを勧めています。そして、最近の教育では「好きでない、楽しくないなら直ぐにやめる。そして、多くのものを体験し、一生を通じて楽しめるものを探しなさい」という方針に変わってきたようです。皆様にお薦めするのは「好きです。楽しいです!」というものを手間と時間をかけてでも探し見つけてください。そして一生を通じて楽しんでください。
私も種々の武道を稽古・体験してきました。それぞれに面白さがあります。1つの武道が別の武道の足を引っ張ることはなく、それぞれの中に新しい発見があり、私の合気道に生かされています。合気道ほど素敵な武道はありません。マインドフルネスと言う言葉があります。この意味は「今、この瞬間に集中する心の状態」で、「この瞬間を大事にする」ことです。この手法は、日本の禅の瞑想効果の検証・研究をもとに欧米でプログラム化されたものです。欧米では、合気道は「動く禅」と評価されています。まさに合気道の稽古は、そこにあります。これからも生ある限り、ともに楽しく稽古をして参りましょう。
先に、シェイクスピアの言葉「過去は人生の序章」を紹介しました。この文章は、私の過去の記憶・記録に基づいています。これからが、私の人生の本章です。そしてやがて最終章を迎える時がやってきます。私には、まだまだ興味のあることが多く、やりたいことも数多くあります。また、先生方から教えていただいた技で、できない技も多くあります。「好きなことを続けていられる今に感謝し、これからも稽古を続けてまいります」。
私は、まだまだ発展途上です。楽しい未来がいっぱいです。
これからも記憶・記録するべきものを、五十嵐道場ホームページ「きままごと」に順次発信してまいります。ご覧いただいている皆様からの貴重なご意見をお待ちしています。今後ともご指導ご鞭撻の程よろしくお願いいたします。
最後に、翁先生の残された道歌を一首紹介します。
「合気とは万和合の力なりたゆまず磨け道の人々」
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